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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第228回
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1−10(月)、ふくやま文学館の2人上京、太宰世界を歩く
年が改まって2005年、ふくやま文学館の2人組みが上京してきた。昨年に開催してくれた「島田荘司展」の展示物のうち、ぼくが東京から提供した展示品を、返却に来てくれたのだった。ペイントしたギターとか、レコード・ジャケツトのために描いたB2サイズのイラストレーション、絵本用のイラスト数点、ピアノの模型、LPレコード数枚など多岐に渡り、とても1人では持てないので、また2人で協力しながら新幹線でやってきてくれた。本当は東京駅まで迎えにいきたかったのだが、どうせ中央線に乗るのでその必要はないと言われ、吉祥寺で待っていた。
吉祥寺駅で待ち合わせ、そういった荷物は家に放り込んでおいて、まずは井の頭公園の茶屋で蕎麦の昼食をとった。2人、特に学芸員の小川さんの方は、吉祥寺にやってきた目的がもうひとつあり、それは太宰治の足跡をたどるということである。彼女は仕事なので、太宰さんの作品はすべて読んでおり、非常に詳しい。ぼくも実は太宰さんを好きなのだが、読んだ作品群は、大部分とは多分言えない。井の頭公園のすぐそばに仕事場があるのに、太宰ファンにとっては聖地のようなこの地のありがたみを、あまり自覚し、噛みしめていない。
とはいえ、やはり好きだから、ひと通りのことは知っている。彼が山崎富栄氏と入水した場所、そして遺体か上がった場所も一応心得ている。冤罪救済の友人などを、何度か案内もした。だから今日もそうしようと思っている。二人は、三鷹文学散歩というチラシを持っていた。福山の文学館でもこういうものが入手できるらしい。
食事後、まず太宰さんと山崎さんの遺体が揚がった、玉川上水の新橋まで案内する。定説では二人は、上のむらさき橋から入水し、下のこの新橋まで流されてきて見つかった。この距離はかなりある。新橋の上から下流側、つまり都心の側を見ると、草木鬱蒼として、なにやら渓谷の模型か盆栽のようなのだが、右手の斜面の緑の内に、ごく狭い棚があるのが解る。ここに二人の遺体は置かれた。
6月の梅雨の季節で、遺体が棚に置かれた日は小雨が降っていた。報らせを聞いて駈けつけたのは富栄さんの父親だった。太宰さんは有名人なので、すぐに阿佐ヶ谷の病院に搬送されたが、山崎さんの方は小雨の中にしばらく放置された。黒い泥が全身に付着し、顔も真っ黒だったという。父親は横たわる娘の上半身に傘をさしかけ、茫然と立っていたという。
二人に場所の感想を聞くと、開口一番、「狭いんですね、この川」、と言う。これはたいていみんなが言う。太宰を知る人は、玉川上水や、富栄との心中の顛末を逐一知っていて、ぼくの説明の要などはいつもないが、脳裏に浮かぶ心中の水流は、みながみな、もっと広いものを思うらしい。
玉川上水は、確かに狭い。これは江戸の頃に玉川兄弟という人が、江戸庶民の飲み水確保のために掘ったものだから、そう広い川にはできなかった。江戸は埋立地だから井戸を掘っても塩水しか出ない。だから武蔵野から延々と真水を引く要があった。神田川にぶつかると、木製の筧で流れを渡した。この筧からお茶用の水を取ったから、そのあたりを「御茶ノ水」と言う。江戸名所図会にもこの筧が描かれているが、かかるその場所が正確にどこであるかは、もう解らない。
上水は狭いが、V字型にえぐれて深く、昔は大変な水流があって、ここでおぼれるも人も出た。太宰さんの事件の時は、警察がここに舟を浮かべ、雨の中、上り下りしながら死体を捜した。

それから上水に沿う遊歩道を歩いて上に向かう。この道は、落ち葉が積もってできた道なので、公園の横あたりでは足もとがふわふわとする。太宰さんも、よくこの道を歩いた。万助橋をすぎてさらに行くと、左手に名作「路傍の石」で有名な、山本有三氏の記念館がある。これは前庭があり、立派な門も用意されて、見事な風情の西洋館である。現在は山本有三記念館となっている。
門の手前には、文字通りの「路傍の石」が移築されている。この石は中野の鉄道沿線にあって、山本さんが何度か見かけるこれを気に入って、自宅の庭に移したという。そして同名の作品が生まれた。小川さんが、「路傍の石って、こんなに大きいの?」と驚いていたが、確かにこれでは「路傍の岩」である。ただ、山本さんがあの小説を書いていた時、この石が脳裏にあったのかどうかはもう解らない。あの作品とは無関係に気に入ったのかもしれない。
山本有三記念館は入場無料である。だからと言うわけではないが、何度も入った。やはり無料にしてもらい、何度も入らないと、なかなかなかの展示物への深い理解は生じない。科学博物館とか、絵画館などまさにそうで、これはロンドンで痛感した。高いお金を取られたら、入るのは生涯に一度か二度になり、そんなことでは何も解らない。
館内には、山本さんの小説出版物や戯曲本、生原稿が展示され、これらは定番のものだが、生前の活動を語るヴィデオを観ることもできる。ヴィデオといっても、むろんフィルムをヴィデオに移したものである。
戦前や戦中、山本さんは邸内に近所の子供を集めて文学に馴染ませ、楽しませることをしていた。しかし敗戦後はこの邸が進駐軍に接収され、将校の家になった。米軍の指導で日本語からむずかしげな漢字は駆逐されそうになり、ローマ字筆記の教育が推進されて、山本さんはこれに危機感を感じ、懸命に抵抗の活動をした。そして熱海に住み、もうこの家には戻らなかった。戦後は政界に進出して、政治活動もした。そして米軍から戻ったこの家は、昭和三十三年に東京都に寄贈した。以来ここは、有三青少年文庫という文化施設になって今日にいたる。
本格的な西洋館で、一階には暖炉もあり、赤い絨毯の敷かれた西欧式階段も見事だが、二階にひと部屋、純和室がある。畳の上にすわり机が置かれて、このあたりはやはり日本の作家である。

太宰さんが住み、数々の名作を書いた家は、このすぐ裏手にあたっている。太宰さんは、知り合いに自分の家までの道順を教える際、山本有三さんの家の角を曲がれといつも言っていた。
太宰さんの家はもう残っていない。しかし、山本邸のように立派なものではなかった。この差はいったいどこから生じたものであろう。太宰さんも一時期は流行作家という感じで、本も売れていたと思うのだが。飲みすぎたのであろうか。しかし飲んでいたのも、せいぜいこのあたりの安い店であった。
太宰さんがこのあたりに越してきた頃は、あたりは一面に田んぼであったらしい。作中に確かそんな表現があった。山本邸の角を曲がって延々と歩く。すると井心亭(せいしんてい)という、いわば和風イヴェントホールの家が左側にあって、その前の路地を入ったところに太宰さんの家はあった。路地の奥、突き当たりの左右に今は新しい家が建っているのだが、どちらの場所であったのかは知らない。
井心亭の垣根の上に百日紅の木が覗く。これは太宰家の庭にあったものを移築したという。この木のことも、作中で触れられていた。
山本家からここに来るまでに、途中稲妻形に屈折した十字路がある。原稿を書きあげると太宰さんは、この家を出て、その十字路を左に曲がって三鷹駅に向かった。この道は斜めに走っているから近道になる。駅前には郵便ポストがあって、いつもここに、太宰さんは原稿の入った封筒を投じた。「乞食学生」だったかに、そんな道筋を書いたくだりがある。原稿を投函すると、読者に媚びたものを書いてしまった嫌悪感に、たいてい酒を飲みにいった、とそんなような表現もあったと思う。
「読者に媚びた小説」とはどんなものであったのか、正確なところは不明だが、推測の材料はある。述べたような道順で三鷹駅前付近に出ると、いわゆる駅前通りから一、二本手前側の通りに焼き鳥屋があって、ここに山崎さんがいた。そして彼女の下宿は、その店の斜め前だった。
山崎さんの下宿は、太宰家から徒歩でわずかに七、八分の距離にある。そんな近くに心中に発展する恋人がいた。これはほとんどワイドショーの世界で、女性視聴者には、あまりにも面白い世界であろう。しかも小川さんによれば、山崎さんは近眼で眼鏡をかけていた。当時の女性用眼鏡には洒落たデザインのものなどなかったろうから、太宰さんはこれを嫌ってはずせとよく言った。これは太宰氏自身もそうだった。眼鏡が必要なくらいに目が悪かったのだが、眼鏡をかけて写った写真はまず見たことがない。彼女の場合はするとほとんど盲人同様となり、太宰夫人とすれ違っても解らなかった。だから二人の確執は大きくなった。
このような日常を多少なりとも筆に匂わせれば、女性誌も写真週刊誌もワイドショーもない時代、それは本も売れたであろう。山崎さんの住まいを、せめてひと駅離れた場所に移せなかったものか。このあたりを歩いて、二人の女性がこれほどに接近して暮らしていたと知り、太宰さん世界のあざとい、あまりにもあざとい通俗小説的傾向を知って、しばし唖然とした。
しかし、世間でたまにそういう考え方を聞くが、太宰さんが計算の上で読者をもてあそび、実生活の女性にもそのように接して、女遊びにうつつを抜かしていたということはない。彼はしばしば血を吐いていた。その苦しさは並大抵ではなく、健常者に到底解るものではない。彼の女性への依存心はこういう事情とも関係があるし、われわれはこういう点を考える必要がある。

駅前で引き返し、迂回する格好で玉川上水のほとりまで戻ってくると、このあたりの上水沿い遊歩道は今は非常に綺麗になっていて、舗道脇に小さな赤みがかった石がひとつ、ぽつんと置かれている。「玉鹿石」と書かれていて、青森県津軽郡から運んだものだという。この方が「路傍の石」の感じがするが、ここが二人の入水地点と言われる。しかし、いろいろな資料を見ると、入水地点として、もっとむらさき橋寄りの場所を示すものが多い。資料ごとに位置が微妙に異なって、だからもう判然とはしない。当人たちは死んだのだから、それもそうであろう。ただこのあたりの土手の草の上に、二人の履物が揃えられて置かれていたという。
もうひとつ興味深い事実は、ここには当時「どうどう滝」と呼ばれるものがあって、セメントで水が堰き止められていて、この縁の上から水がかなりの落差を持って落ちていた。だから深夜などにここに来れば、しんとした暗がりの中で、水の落ちるどうどうという音が周囲に轟き、恐ろしげな風情だった。太宰さんは、友人をよくここに連れてきて、どうだ、すごいだろうと言ったという。
今はもうそんな滝はない。そもそも水量がうんと減った。流れの音などそよともしない。しかし当時、ここはそういう恐ろしい場所で、死の気配を感じさせた。太宰さんは、子供の頃から水を恐れていた。しかし、彼が死に場所として選んだのは、自身が最も恐怖した場所だった。

三鷹駅前を南下して、禅林寺に向かう。太宰さんと森林太郎さんの墓があるからだ。途中、「饗応婦人」のモデルになったといわれる桜井浜江さんの家の前を通る。塀全体が、鬱蒼とした笹の葉で覆われて、小さな森のような気配だ。そして家はひっそりとしている。桜井さんは、今は体が悪くて入院されていると聞く。ここは、石塚桜子さんのマンションの隣だ。寄ってみようかとも考えたが、今日のところは遠慮しておいた。
禅林寺までの道の途中には、瀬戸内寂聴さんが下宿していた煙草屋さんが今もある。家を眺めてから墓所に入り、墓石の前まで案内すると、二人は感慨深げに見入っていた。小川さんに感想を聞くと、「太宰らしいなーと思って」というコメントだった。三鷹駅前の喧騒を離れて、こんなひっそりとした墓所に眠る。墓石の造りは大げさではなく、隣の墓石とまぎれそうだ。そして斜め前には尊敬していた森鴎外の墓がある、そんな様子は確かに太宰的である。津軽時代から尊敬していた井伏鱒二さんとは、墓が離れた。
ふくやま文学館の磯貝館長は、森鴎外の研究者なのだそうである。太宰の研究者というより、鴎外研究とか、漱石研究と言った方が格調が感じられる。いかんともしがたいことだ。たとえば大学の卒論に「太宰研究」などと言うと、あまり安全なものではないらしい。しかし磯貝館長の端正な人となりは、やはり鴎外の研究者という様子がふさわしい。
それからまた歩いて吉祥寺の方向に戻り、今度は車で二人を横浜方面に案内した。まあ自分としては、よく知る一帯を案内したということになる。二人はその夜は吉祥寺駅前のホテルに宿泊した。
 
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