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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第227回
島田荘司のデジカメ日記
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11−2(火)、東京サイン会
四都巡り、サイン会ツアーもようやく最終日で、本日は東京である。場所は千代田区丸の内、東京駅ビル内の、三省堂書店大丸東京店となっていた。
サイン会のスタート前に、1階下の喫茶店で、原書房のI毛氏、そしてT橋氏と久しぶりに会う。なかなか元気そうであった。腫瘍ができたとかといって騒いでいたT橋氏だが、まったく変わった様子はない。何よりである。
ここの三省堂書店ははじめてだ。東京駅八重口ビルは数限りなく来ているのに、6階にまでは上がってきたことがない。実際5〜6階のフロアは、ぶらついてみたら妙にひっそりとして、華の東京のど真ん中、これ以上ない最高の立地場所の、思わぬ盲点のようにも感じる。だから、はたして人が集まってくれているものかとここでも心配になったが、会場に行ってみたら、ここにも長い列ができていて、ほっとひと安心した。むしろ通りかかる買い物客がいず、ここが一番落ちつついてサイン会ができた。これまでの三都はすべて1階であったが、ここは6階、地上の雑踏を遥かに離れた高みという、そういう立地も落ち着いた。

始めてみたら、さすがにここは東京地元で、知り合いの数も多かった。河野流華さん、アケミ姉さん、メゴチさんの姿もあって、一部ではオフ会のような空気にもなる。別に不平に思っているわけではないが、福山で小中高時代の友人が来なかったなと思ったが、考えてみれば東京もそれは同じである。ここももう福山以上の故郷で、小中の一部、そして大学時代以来ずっといるわけだから、その頃の同級生が来ないなと、ここでも思ってよい。東京のサイン会で、同級生が来たことなど一度もない。福山市ももう都会なのだから、あそこでばかりこれを思うのは妙なことだ。と書くと、なんだか同窓生に来て欲しいと思っているようだが、そういうわけではない。ただ思いついたから書いているだけである。
東京はさすがにインテリの街で、地方では若い人たちが多いが、ここでは中高年の方たち、また男性も多くて、これは嬉しかった。この日、「『龍臥亭幻想』を読む上での心構えが何か簡潔な言葉で存在すれば、名前の横に書いてください」とそういう銀髪の紳士に言われ、はたと戸惑った。1人にあまり時間をかけているわけにもいかないから、いつも色紙に書いている英文を書いた。
けれど今思うに、あの言葉は、「龍臥亭幻想」を読み解く上でのキーワードとしては、それほど適切ではなかった。さらに適切なものというなら、前日の赤坂での日記に書いたようなことである。しかし、端的な言いきり文で、しかもそれが日本語、さらに言えば「言文一致文」というのは、これは至難である。そもそも口語は、色紙に何か書く文体としてはあまり適していない。一目瞭然に意図が解ればいかにも照れくさい。そもそも作家が、色紙に何ごとか訓戒めいた文句を垂れるという行為自体がおこがましい。何ごとか人に示したい思想があれば、それはもう本に書いているし、行動でじっくり示している。そのような重いものが、色紙一枚に書けるものではない。しかし、せっかく会ったのであるから署名以外に何か記念を、と言うのもこれはこれでよく解る。
だから武者小路実篤さんのように、毛筆で何か書いて、ついでに毛筆で描いた果物の絵でも添えれば、その味のある筆勢とエンターテインメントにしばし幻惑されて、直接性とか、鉄面皮性がやわらぐ。つまりは気恥ずかしさがいくらかは薄まる。たとえ「根性」とか「努力」と書いてさえも、それはかぼちゃと同じく絵だと思ってもらえれば、何とか様にもなる。ぼくの場合、この直接性を薄めるために外国語という手段を使うが、これでは薄まりすぎて、何のことだか意味が伝わらない。家に帰って辞書を引いてもらうのも恐縮だし、ばかばかしい。しかし、「これどういう意味です?」と訊かれてしまい、その場で口頭で意味を述べたら、気恥ずかしさはやっぱり同じである。

ともかく「龍臥亭幻想」であるが、最近こちらで、感心させられる英文に出遭った。子供向けの、非常に簡単な英文で、こちらの人間なら誰でも知っている。しかしこれが日本人に圧倒的に欠如していて、というより呼吸のごとき生活必需品のこれが、わが社会には皆目発想さえもなく、世界に冠たる34000人超死亡の自殺社会や、大学院の教授が女の子のスカートの中を覗くとか(ニュースをそのまま信じているわけではないが)、電車がスピードを出しすぎてカーヴを曲がりきれず、マンションに突っ込むというような、唖然呆然、耳を疑い、クビをかしげてもあまりある、世界には前例のない、驚天動地のすっ飛んだチン事件現出に、どこかでつながっている。そうして思えばこの言葉が、「龍臥亭幻想」に、あるいはこの中に出てきた変な和尚さんの性質などに一脈通じ、キーのワードではあるまいかと思えてきた。
どんな言葉かというと、それは「Shout Praise,Whisper Criticism」というものだ。「叫ぶなら賞賛を。批判は(直接当人に)ささやけ」ということである。こっちの笑い話に、ゴルフの応援をしていて、「ナィス・スゥイング」だの「ナイス・ボギー!」、「やったぜ、最高だ!」とポジティヴな野次を飛ばしていた男がいたが、ゴルファーがあんまりドジばかり踏むので、だんだん褒めることがなくなり、勢いあまって「ナイス・パンツ!」と叫んだという話がある。どうしても叫びたければ、ズボンでも褒める覚悟が大切である。それこそが人の世の嗜みというもので、みんな楽しくなければ人生を生きられないのである。もう嘘をつく必要はない。それが人間という動物なのだ。
ぼくはこれまで、新人の推薦に関してなど、まずまずこれを実践してきたという自負はある。が、ぼくなどと違って正しく生きる人の道徳観は、「Shout Criticism」となっており、賞賛など、ささやきさえする必要はない、常に厳しくさえしておけば、事態が悪くなることは何もない、という変態的な常識が、未だ健在でいる。この道徳観が、民族的な信念にまで高まっている、それがわが愛する祖国だ。そこで細かな事柄は、せこいプレッシャーゆえに目覚しく改善されていき、空前絶後、突拍子もない、ダイナミックな赤恥、国辱ばかりが世に起こる。それが現在のニッポンである。
とまあいうようなことだが、この時、署名の脇にこの英文を書けばよかったと今思っている。

大丸でのサイン会も無事に終え、A井さんと2人でタクシーに乗り、靖国神社そばのしゃぶしゃぶ屋に行く。明治初年創業の、「大周楼」という老舗であった。
ここに先述したカッパ編集長のW辺氏、文庫編集長のN代氏、以前に小説宝石の担当編集者で、現在は重役となったS原M子女史などが待っていてくれ、全行程無事終了を、ビールで乾杯した。ほっとして酩酊も進み、コメントを求められるから、薄野から、福山の「手のひら返しのA井」の一件へと続く、担当編集者氏への愚痴をこぼしたら、みな一様に同情の顔つきをした。しかし明日からはまた、雄々しくA井さんとともに前進するほかはない。
 
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