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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第218回
島田荘司のデジカメ日記
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10−18(月)、イートーブの里を巡る
翌朝、またひと風呂を浴び、朝食をとってから藤三旅館を後にする。そして女の子の声で饒舌に喋るカーナビにしたがい、一路宮沢賢治が教鞭をとっていた花巻農業高校に向かった。喋るこのカーナビは、かつての北海道旅行のおり、A井さんがついに扱いをマスターした機械である。このカーナビの可愛い声を聞いていたら、ちょっと冗談が浮かんだ。このカーナビを使ってドライヴァーを危険な場所に誤導し、殺人を起こすこともできますね、とA井さんに話した。「そこを右です」、「左です」と山の奥に誘導し、崖に向かう道を、「まっすぐです。アクセルを踏み続けてください」と愛らしい声で指示をして、そうしたら崖からまっさかさまに転落、死亡というのはどうでしょうと言ったら、これは駄作になるなと見たA井氏は、「それは講談社にどうでしょう」と言った。
そこでぼくは、「ではそうするかな。いやA井さん、しかしどんなつまらないと見えるアイデアでも、よいものにする方法は必ずあります。この場合は、犯人はそう考えるのだが、失敗するのです。彼はそこで自分は死んだと見せておき、このアイデアを巧妙に逆用して、犯人に報復を成すんです」と言ったら、これは案外いけると思いなおし、彼は、「それはやはりうちで行きましょう」と言いだした。
というようなしようもない会話をしていたら、道に迷ってしまった。いつまでたっても農業高校に着かない。そこでこれは引き返そうと思い、路地にいったんお尻を突っ込んだら、そこに「芸術村、蕎麦どころ、青雲庵」と書かれた小さな看板が立っていた。矢印があって、すぐそこらしい。昼食前でそろそろ空腹になってきていたし、これは面白そうだと思って、寄ってみることにした。

まだ時間が早くて、村はひっそりとしていた。農家の庭先のような場所を、ぐるりと新旧の建物が囲んでいる。萱噴きの農家ふうの家があり、気持ちのよさそうな縁側には猫が寝ていた。庭先から背後を振り返ると、飛行場らしいものが見える。家に入ってみたら、あちらこちらに、陶器や木彫りのなかなかよいセンスの小物が並んでいた。中に明かりの入った陶製の照明具や、額に入って壁に掲げられた木版画作品。皿や器、畳の座敷には木造りの卓、奥には蕎麦を打っている職人の姿もあった。座敷に上がり、ざる蕎麦を注文したら、銀髪の、非常に人柄のよさそうな人がやってきて、この文化村の村長だと名乗り、この村の由来や特徴について、細かに説明をしてくれた。
ここはもともと、京都在住の木版画家で、染色家でもあった井堂雅夫さんという大家が開いたアトリエなのだという。井堂さんは京都の風景を得意とする芸術家で、だから京都に住んでいたのだが、宮沢賢治という芸術家の世界にも興味があり、染色はもう後進にまかせ、木版製作に集中しようと考えた時、賢治の里に仕事場を持つことを思いついた。しかし京都とも往復がしやすいよう、花巻の空港から歩いてこられるような場所に工房を建てた。それがここなのだと言う。確かに空港の滑走路らしいものが庭から望める。ここなら京都からふらと飛行機で飛来して、歩いてこられるであろう。
そうしたらここに、だんだん才能のある人が集まってくるようになって、いつの間にか寄宿工芸学校のようになった。今はこの裏手に、陶器を焼く工房もあるし、それとは別に、木彫りの工芸品を造っている工房もある。木や粘土でちょっとした小物も造るようにもなり、これは一日入門のようなこともやっている。蕎麦を打つ職人も来たし、最近ではジャズマンや、和楽器の演奏家も訪れるようになって、この家の土間でコンサートを開くこともあるという。まさにイーハトーブの理想郷のような、芸術家の開放空間が花巻空港そばにできていた。この様子は、賢治の生前の思想とも合致するに違いない。
蕎麦を食べ、黒パンがおいしいというので、これも注文して食べてみた。できたてなので、これは本当においしかった。村長はそれからわれわれを案内して、村中の工房や仕事場を、くまなく見せてくれた。
あんまり親切なので、帰り際、われわれは光文社の編集者と物書きだと言って名乗ったら、村長は、「なんと、うちの息子が島田さんの大ファンです!」と言ってくれるではないか。そこでこちらも大感激、A井さんが携えてきていた新作、「龍臥亭幻想」上下本にサインして、息子さんの名も書き、息子さんにと言って託した。そして村長さんに花巻農業高校の所在を聞いて、この村を後にした。高校はそこから眼と鼻の先、あそこですよと、村長が指で示せるくらいであった。
長く手を振ってくれる村長さんを見ながら、「あの人の息子さん、今夜はびっくりするでしょうね」とA井氏が言った。彼の人柄のおかげて、しばらく気分がよかった。

花巻農業高校に着き、高校の校舎には入れないであろうから、そばにあるはずの「羅須地人協会」を探して歩いた。石に腰かけていた生徒に地人協会の位置を訊いたら、あそこですよと、これも指差してくれた。その時生徒の背後の校舎に、「ヒカリノミチヲフム」という賢治の言葉が掲げられているのが見えた。それでふと、友人の大嶋美智子さんが作ってくれたピアノ曲、「龍臥亭組曲」の中の一曲を思い出した。タイトル付けを頼まれていたのだが、どうもうまくタイトルが付かないものがひとつあり、あれは「光の道を行く」がぴたりだなと、この時にその看板を見ながら思いついた。
羅須地人協会は、当時はそうではなかったのだろうが、立派な庭園の緑の中にあった。ガラス窓の目立つ、板張りの、今となってはなかなかモダンな印象の二階家である。裏の勝手口に廻ると、例の「下ノ畑ニ居リマス」と書かれた黒板がある。羅須地人協会といっても、何らかの組織と言うわけではなくて、賢治が自分の住まいを勝手にそう呼んだだけだ。
賢治はこの家で新しい農業のありかたとか、肥料の製作、土壌の改良などに日夜頭を痛めていた。また一階の板張りの部屋ではチェロも弾いた。近所の農家の子供たちを集め、黒マントを着て空を飛ぶ話もした。「日照リノ夏ハオロオロ歩キ」というのは、このあたりの畑のイメージのはずである。そしてこの家で、彼は高熱を出して倒れもした。この家にいた頃の賢治は、民にあまり受け入れられず、さぞ楽しくない日々を送ったと思われるが、そういう日常の辛さは、文章書きにはけっこう相性がいいものだ。
次にイーハトーブ館に向かう。ここは門を入り、館に向かうまでのアプローチがよかった。セメントの石段を水が流れ落ちて、歩道はこれに沿っている。ここでは賢治関係の本を若干買い込んだり、展示を観たり、階上の図書室を見たりしてから、すぐそばの「宮沢賢治童話村」に行った。
これもまた、ひろびろとした公園のようなよい環境で、方々でメルヘンを感じられる趣向になっている。たとえばあるバヴィリオンでは、順路に導かれて進むと、巨大な蟻や動物、草木などがファブリックで造られた部屋に出て、身が縮んだアリスの気分が味わえる。

そこを観たら、ちょっと甘いものと紅茶が欲しくなった。A井さんが土地の女性にケーキのおいしいところはないかと尋ねたら、ドイツ人がやっているカフェを教えてくれた。「バックシュトゥーベ」という名の店で、電話してみたら、今日はお休みなのだけれども、東京から来たのであれば開けてあげると店主は言ったという。親切な人らしかった。
行ってみたら、しもた屋を洋風に改造した洒落た板張りの店で、応接間のような木造りの部屋に通された。店主は背の高いドイツ人で、今日は焼いていないのでケーキの種類がないけれど、いいかと問う。かまわないと言ったら出してくれて、いろいろと話をした。
生粋の岩手人といったふうの流暢な日本語で、こちらの女性と結婚していると言う。もともとは焼き物の勉強のために花巻に来たのだけれど、ドイツ料理やケーキの腕をほめられて、サイド・ビジネスのつもりでレストランを始めてみたら、こちらばかりが好評で忙しくなり、焼き物や工芸品を造っている時間がなくなったのだと言う。そして入り口脇のオフィスに案内してくれ、中を見せてくれた。
棚には彼の作品がたくさん並べられていて、彼の生まれ故郷、ドイツの街の写真もパネルにして飾られている。彼の焼き物は、釜に入れる前に縄や紐をたすき状に巻いて入れる。するとこの縄が燃えることによって、特有の模様がつく、そういう方法だった。なるほど、面白い模様の付いた褐色の壷ができあがっている。ドイツ人らしからぬ、日本ふうの素朴な風合いに見えた。細かい説明をしてくれる彼の風貌がまた、イーハトーブという語感に妙にマッチして見えた。
彼に見送られ、バックシュトゥーベを後にして、花巻空港の、さっき蕎麦を食べた文化村とは反対側の正面玄関を見物してから、駅前にレンタカーを返して、新花巻駅から新幹線に乗った。とまあそのような、宮沢賢治を巡る3日間の旅であった。
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