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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第217回
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10−17(日)、野村胡堂、あらえびす記念館
翌朝はラ・フランス館を9時に出発、ミニバスで花巻市街の「野村胡堂記念館」に向かう。ここで「鮎川哲也氏を偲ぶ会」を行うという趣向である。
野村胡堂という人は、大衆小説「銭形平次捕り物控」、なんと全百八十三編の著者として有名だが、「あらえびす」のペンネームで、日本にクラシック音楽を定着させることにも大きな貢献をした。野村胡堂さんは、本名を野村長一(おさかず)と言い、明治15年に紫波町に生まれて、同町の名誉市民ともなっている。この館はむろん氏を記念顕彰して建てられたもので、野村氏の往年の刊行著作物や、生原稿の展示のほか、あらえぴすとして渉猟収集したレコードもすべて保管している。館長は野村晴一氏で、胡堂さんの子孫にあたる人らしい。大変気さくな人で、今回はSPレコードを回す役目も引き受けてくれた。
何故ここで鮎川先生を偲ぶ会かというと、生前の鮎川さんがこの館長と親しくしていて、鮎川先生もクリシック音楽の通であり、レコードの収集もしていたので、亡くなられたのちは、先生のレコードのコレクションをすべて、遺族がこのあらえびす記念館に寄贈したいきさつがあるからである。本日はここのコンサートホールにみなで集まり、鮎川コレクションを聴こうという趣向である。つまり「偲ぶ会と」いっても、鮎川さんが好きだった音楽を聴くというだけだ。
SPレコードなので専用のプレイヤーがないと再生できないが、記念館なら最高の電蓄がある。そして特に本日は、歌曲が好きだった鮎川先生のため、声楽家の佐々木晶子さんが駈けつけてくださり、佐々木さんは有栖川有栖夫人の友人なので、彼女のピアノ伴奏で何曲か歌ってくださることになっている。

あらえびす記念館は、イーハトーブの里を一望できる高台の景勝地に立っている。前庭は芝生で、ここに立てば花巻の平野が眼下いっぱいに広がる。関内の展示も、銭形平次の扮装をして立つマネキン人形などあって楽しいものだが、コンサートホールが見事なものであった。広くはないが、音響の効果もよく、ちょっとした舞台もある。入ってみると正面に、時代物の立派な電蓄が鎮座して、われわれを待っていた。
鮎川先生と特に付き合いの深かった雑誌、「レコード芸術誌」の方がいらしていて、かけるレコードの曲を、前もって解説してからわれわれに聴かせてくださる。この時に聴かせてもらった曲は、シューベルトの歌曲より「水車小屋の娘」、「冬の旅」、「野ばら」、「魔王」。ジルヒャーの「ローレライ」、アイルランド民謡「夏の名残りの薔薇」といったもの。みんなどこかで一度は聴いた曲だが、レコード芸術誌の専門家も聴いたことのない、珍しい録音のものがあったようで、なかなか貴重な体験となった。もっともこちらはあまり詳しくないので、猫に小判というところもあったが。
それらが終わると、少し休憩時間をとって電蓄を脇にどかし、第二部として佐々木さんの歌唱を聴かせてもらうことになった。「アヴェ・マリア」、「春の想い」、「月に寄せて」。そして鮎川先生が特に好きであった日本の歌曲から「朧月夜」、「城ヶ島の雨」、「浜辺の歌」などなどであった。
佐々木さんという人についてはあまり存知あげなかったのだが、見事な歌唱で、しばし聴きほれた。レコードは著名人の名唱ばかりなのであろうが、なにぶんSPなので雑音も多く、録音はフラットなモノラルだから、ホール全体の空気を揺さぶるというわけにはいかない。現実に歌手が目の前に立ち、聴かせてもらう歌曲には、録音は及ばない。最後には「浜辺の歌」をみなで合唱し、コンサートは終わった。
フ昨夕、隣りにすわって多少面識ができていたので、終わってから通路で彼女に「素晴らしかったです」と礼を言ったら、嬉しそうにお辞儀をしてくださった。それからぼくは一人でここに居残り、みなはまたミニバスにおさまって最後の食事に向かっていったのだが、佐々木さんは、館の前で見送るぼくに、窓から会釈をして去っていった。

ぼくがここに残ったのは、ご存知光文社の神出鬼没の名編集者、A井氏を待つ約束になっていたからである。近作の取材を兼ね、この機会に宮沢賢治氏のゆかりの場所をあちこち見ておきたかった。取材がA井氏と一緒ということにとなると、この原稿は光文社に行くことになるであろう。
ミニバスが去ると、待つためにぼくは、一人館内の待合室にと戻ったのだが、待つほどもなくA井氏はやってきた。そこで彼と一緒にレンタカーを借りにいき、花巻取材という名の、市内観光に出発したのであった。
まずは昼食のために、「山猫館」に行った。これは賢治が生前に自費で刊行した、唯一とも言うべき童話集、「注文の多い料理店」に出てくるレストランを模した店である。賢治をたどるおのぼり観光客たちは、みんなここに行く。行くのはいささか忸怩の念があったのだが、ほかに思いつかなかったし、取材となると定番のものを観ておく必要があるので、つまり作中人物が行く可能性があるからだが、ここに向かった。
着くと、そんなことだろうと思ったが、日曜日なので案の定観光客でごったがえしており、名前を告げて、呼ばれるのを待つことなる。入り口の壁には、「ここは太った人、若い人は特に歓迎です」という、原文の例の一節が掲げられている。呼ばれたので席につき、賢治蕎麦を食べた。
そして食後向かったのは、「宮沢賢治記念館」である。ここを見たら、次は「イギリス海岸」と、絵に描いたようなはとバスツアーであった。しかしほかにこれといって目立つものがないので致し方がない。今花巻は、かつて迫害した宮沢先生が、唯一にして巨大な観光資源で、「宮沢賢治記念館」に「宮沢賢治童話村」、「イーハトーブの里」に「イギリス海岸」、「花巻農業高校」に「羅須地人協会」というような按配である。しかし全部廻るつもりでいるが。それ以外というと、しぶい北の食べ物どころとか、温泉の宿しかない。それはそれで、今夜泊まるつもりでいる。
が、実際のところ、賢治という人は、いわば博物学者であって、当時は学問の分化がそう進んでいなかったから、地質学、化石学、恐竜学(当時はそんな名前もなかったが)、農業学、宇宙学、そして絵を描き、楽器をやり、詩を書き、童話を書き、小説を書いたので、エンターテインメントの展示テーマには事欠かない。巨大なお椀のようなドームに入って星座を観たり、出てきて化石の展示を観たり、彼の描いた水彩画を観たり、愛用のチェロを観たりできる。賢治がいなかったら、果たしてこの街はとうなったのであろう。どこにでもあるひなびた温泉街で、新幹線も素通りしたであろう。
北上川のイギリス海岸は、前から観てみたかった。だが行ってみたら、水量が多かったせいで、何の変哲もない水べりに見えた。ここは乾水期でなくてはイギリスふうにならない。まあ、近くで恐竜の化石が出たりしたので有名になったのだろう。それがなければ、あるいは忘れられたかもしれない。しかしそえゆえにあまり俗化していず、のんびりと水辺を眺め、ベンチにすわっていることができて、なかなか気分がよかった。
あとはこの近くの北上川にかかっているという、「銀河鉄道」のイメージになった岩手軽便鉄道の瀬川鉄橋というものを観たかったのだが、これはもう取り壊されてしまって存在しないという話であった。銀河鉄道のジョバンニの町は、花巻ではなく、盛岡の市街がイメージになっている。最近では信州も、あの物語発想の舞台になったと名乗りをあげているらしい。そうならさまざまな場所が、賢治の脳裏でミックスされているのであろう。
その夜は、鉛温泉の「藤三旅館」という宿屋に泊まった。これはなかなかの旅装で、古びて床がきしむような木造の三階建てである。川べりに建っていて、縁側のガラス戸を開けると、眼下にせせらぎが見降ろせた。紅葉した山肌がすぐ眼前に迫り、近くに赤い鉄橋もかかっている。これも夜の闇の中では、おそらく銀河鉄道の風情であろう。
そしてこの温泉宿の売りは、今はやりの入浴のエンターテインメントの走りで、広い館内のあちらこちらに、いろいろな趣向の浴室がある。客がそれほど込んでいなかったので、食事の後、これらをまんべんなく巡って楽しんだ。川べりの露天風呂もよかったが、圧巻は立ったまま入る浴槽である。岩風呂が深くて、湯の中の石段をそろそろと下ると、首のあたりまでお湯が来る。
そしてここを出て自室に向かって廊下を引き揚げていたら、地階に同潤会アパートのような古い引き戸がずらと並んでいて、暗く、ひっそりとしていた。どうやら湯治客たちのための泊まり部屋らしい。昔は温泉旅館の宿泊費がそれほど高くなかったので、厄介な持病を患う人たちがこういうところに長逗留し、入浴を繰り返して病を癒した、どうやらそういう部屋らしかった。なかなか歴史を感じる、ユニークな宿である。 
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