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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第214回
島田荘司のデジカメ日記
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10−11(月)、南雲堂で創作質問会
先日、文京区民会館で日本のミステリーの歴史と、その意味について、といった趣旨の講演を行った。しかしこれは日本ミステリーの歴史とか、特殊性を把握せんとするものであって、執筆行為に直接関わるものではない。こういう発想も大事だが、これを正確に把握しても、よい小説が書けるというものではない。
デビュー前、新人は意外に素朴な疑問を持ち、しかしそのあまリの初歩性ゆえ、誰にも訊けずにいたりすることがある。たとえば編集者なりに見てもらうのに、手書き原稿でもよいのか、活字印刷物にするのが望ましいのか。もし手書きでもよいものならだが、鉛筆で書いてもよいのか、汚い字は不利か、格好よすぎるペンネームとか、ちょっとふざけたペンネームは、見てもらう先生に失礼にはあたらないものか、等々の類いだ。
こういうことは、大勢の聴衆が集まっている時、壇上の講演者に向かってはなかなか訊きづらいし、かといって現職の作家以外に尋ねても、その答えは一般的な行儀論でしかないであろう。であるから、こういう人たちのために、デビューを決意している若い才能を、あまり大人数ににならない程度に集め、こういう初歩的な質問も遠慮なくしてもらい、膝詰めで話してみたいと考えた。講演では言及できなかった、執筆上のもっと具体的な疑問にも応えられるし、直接的なアドヴァイスも行えるであろう。作家と直接話すような機会は、ぼくの側からすればいつだってできるような感覚でいるが、デビュー前の在野各人にすれば、あるようでなかなかないであろう。そしてこれを録音して活字化すれば、文京区民会館での講演と併せて、講演録として出版できるツカともなるであろうかと考えた。
この時、ちょうどニューヨークからリンコさんこと竹内玲子女史も帰国していたので、彼女にも参加してもらった。007号やMatthew氏、もうじき東京創元社からのデビューが決まっている元東大助教授の麻生荘太郎氏、南雲堂からデビュー前夜の小島正樹氏、Pattyさん、角田さん、画家の石塚桜子さん、吉敷もののテレビ化を推進してくださっている安井ひろみプロデューサー、その娘さんの弁護士修習生、タックさんに星野仙ニさんにN雲社長という、お馴染み南雲堂トリオ、そしてご存知光文社の快男児、A井N充編集者、同じく原書房のエースで早稲田実業の豪腕投手、I毛R哉編集者と、新人作家以外にも、net世界の有名人が南雲堂会議室にうち揃った。

質問会に先立ち、まだオンエア前の2時間ドラマ、「吉敷竹史シリーズ・寝台特急はやぶさ1/60秒の壁」のヴィデオの試写会を行った。そしてこれを製作してくださった安井プロデューサーに、感謝の拍手をみなで送った。安井プロデューサーは現在、「透明人間の納屋」の映画化も企画し、進行してくれている。
それから質問会に入り、ぼくがみなの前に椅子を出してかけ、どんな初歩的な質問でもかまわないので、遠慮なく訊いて欲しいと言った。この時の質疑応答の内容を、みんなここに紹介することはできないが、思い出せるものを以下に2〜3挙げてみよう。

梗概には、トリックまでを割って書いた方がいいのか、それとも隠したままでもいいのか、という質問。
これは出す相手による。たとえばぼくに、まったく腹を割ってこんなものを書きたいのだが、と相談するような場合には、割って話してもらう方が、トリックそのものを一緒に磨くことができる。しかしこういうケースは特殊で、基本的に提出する相手、たとえばそれは賞審査員とか編集者であろうが、彼らは最初の読者なので、むしろ割らない方がよい。たとえ仕事で読まされる場合でも、謎が存在してくれている方が楽しく読める。またそれも評価軸のひとつである。
たとえば賞に投じるような場合、梗概を付けるように要求されることがあるが、その場合も割る必要はない。これで生意気だと感じる選者は、いたにしても化石で、どうせトンチンカンであるから気にする必要はない。興味を引くような書き方をしてくれている方が、選者はむしろありがたく感じる。むろん選者を見下し、威張ったふうの書き方は論外だが。ただしぼくならばその場合、そこまで書くのなら、よほどの自信作なのであろうと期待はする。それでもう読まないということはない。

長編を書くという場合、プロットの細部までをどの程度煮つめてから書くのがよいのか。たとえば書きはじめる段階で、すでに各章の各場面までをもしっかり考えておく必要があるのか。それともメインのトリックと、全体の大雑把な流れだけを決めておけばよいのか。
これは、こうこうだ、それとも、こうするべきが正しい、というふうには答えられない。作家によって違うし、もっと言って。各作家、時期によって違う。たとえば綾辻さんなどは、書きはじめる時点でもう細部までをしっかりと決めていると言っていた。内田康夫さんは対照的に、トリックも、物語の流れさえもいっさい決めないで書きはじめると言っていた。どちらの作家も成功しているのを見ても解るように、どちらが正しいとは言えない。
ただし綾辻さんも、最近は細部までを決めていないかもしれないし、内田さんも、初期の頃はもっと細部まで決めて出発していたかもしれない。お二人のことは知らないが、作家全般に関しては、今述べたような変遷の傾向はある。ぼくに関してもあるのかと問われると、ぼくの場合は特殊で、こうだと言いきるのはむずかしい。「異邦の騎士」などはむしろ細部まで決めていなかったし、「ネジ式ザゼツキー」は、近作なのにかなり細部までを決めていたように記憶している。
しかしぼくに関しても、概して言えることは、メインのトリックと、大雑把な流れさえも決めずに書いたことは、少なくとも長編の場合は一作もなかったように思う。ただしぼくはかなり例外的な書き手で、こういう構造的な部分からすでにヴァラエティを持たせることを考えていたので、やはり言いきりはできない。言いきれば、かならず例外が探しだせるであろう。ともかく述べたようなことで、それこそが作の骨組みに関わるものであり、選択は、どのような作品をもくろむかによる。どのような方法を取ろうとも、傑作もできるし、駄作もできる。作品の出来不出来を決定する要素はそこではない。
とまあいったような調子で話した。なかなか楽しい会であり、互いに有意義だったのでは、と期待する。それからみなで電車に乗り、石川良さんが最近開いた「窓灯(まどび)」というスナックに行ってカラオケをやり、お疲れ会をやってお開きにした。
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