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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第207回
島田荘司のデジカメ日記
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4−23(金)、福山エストパルク講演会。
鞆で目覚め、いろはま丸展示館というものを観る。慶応3年、海援隊を率いていた坂本龍馬が、いろは丸という蒸気船で鞆の沖合いにかかった時、濃霧の夜で、紀州藩の明光丸と衝突した。いろは丸は明光丸に曳航されて鞆港に向かっていたが、途中鞆の沖で沈没した。これを最近潜水調査して、船から引き揚げた遺品を展示している、ごく小さな博物館である。
龍馬は、この鞆の町では民家の階上にしばらく隠れ住んだらしいが、その部屋も再現されている。いろは丸は、万国公法という当時の国際法を盾に、紀州藩から8万3000両という賠償金をせしめた。しかし受け取る直前に、彼は暗殺されてしまう。
鞆という町には、子供の頃によく来た。しかし常に海水浴の時なので、夏の風景しか知らない。今日のような、陽射しの穏やかな春の日に歩くのはたぶんはじめてである。展示館は、港の石段に面して建っていた。そばには、安政年間に造られたという石造りの常夜灯が立っている。
鞆は水の綺麗な港で、子供の頃、水中に消えている石段の先が、水に没したずっと下まで見えていて、近くを小魚が素早く泳いでいたのをよく憶えている。そういう記憶が甦ったから石段の沈んだ先を覗けば、当時より水は濁っていた。
福山市は、小説家に格別何も語らせるもののない街だが、鞆は多くのものを持っている。古くは魏志倭人伝の水行陸行で、邪馬台国にいたる途上の投馬の国、これを鞆だとする説がある。以降、万葉集などにも登場しているし、朝鮮の友好使節が、常に上陸して留まり、歓待を受けた港町としても有名である。
それはここが潮待ちの港であったからで、瀬戸内海という巨大な内海は、東からの潮流も、西からの潮流も、それぞれ鞆沖まで来て引き返すループ状の流れになっている。だから双方とも、潮流に乗って鞆まで来たら、その先まで進もうと思えはいったん鞆にあがって、潮の流れが変わるのを待たなければならなかった。それで鞆は、古来から海の民でにぎわっていた。
さらに鞆を有名にしたものは、琴の名手、宮城道雄だろうか。彼は神戸、三宮の生まれだが、父親は鞆の出身者で、名作「春の海」は、この鞆の海だという説がある。また福山市は琴の生産で有名で、全国の琴の約70%を造っている。
また斉氏が車で来てくれ、福山市に戻る。ます県立博物館に行き、本日から開催の、「阿部正弘と日米和親条約展」を見学させてもらう。これがまた、まことに充実した展示であった。横浜の開港資料館の特別展示でも、なかなかここまでの充実ぶりはない。福山という街の文化力を見直す思いである。
ペリーから贈られた蒸気機関車の小型模型も造られ、展示されていた。役人の武士たちを乗せ、関内の砂浜を走ったこの本物が、何故か以降行方不明である。個人的にこれが気になっていたのだが、この時に付ききりで解説してくれた館員に訊けば、勝海舟の海軍養成所で、火災に遭って破壊したらしいという話であった。これは貴重な知識を得た。
それからふくやま文学館に行き、磯貝館長の説明で、島田荘司展の展示を観せてもらう。小川さん、二井岡さんの2人とここで再会する。小川さんに桜井浜江さんの報告をする。その後石塚さんの方から、残念ながら桜井さんは、今到底インタヴューに応じられる状態にはないという報告を受けた。
磯貝館長は、非常に人柄のよい人格者で、展示も小川、二井岡両氏の頑張りで、素晴らしく充実したものに仕上がっていた。斉氏と妹も、頑張って家の中を徹底捜索してくれたらしく、子供の頃にぼくが使っていた野球のグラブだの、玩具のヨット、さらには幼児の頃愛用の、当人には全然記憶のないベレー帽までが展示されていて、なんだか自分の展示ではないみたいだった。
館の要請で、ここで手書きの挨拶文を書く。そうしたらまた新聞記者が取材に来てくれて、講義室で記者会見となる。生きているうちにこんな展示をされてどう思うかと問われるから、それは福山市に作家が少ない事実を語るのだと言ってから、でも生きているからできる恩返しもあるでしょうね、と言った。
終って、遠路はるばる駈けつけてくれた原書房のI毛氏をまじえ、磯貝館長と、「ふくやまミステリー文学新人賞」の話をした。具体的にこれが立ち上がったらどのような実際になるのか、I毛氏の意見を聞いたのである。この構想に、館長は大いに乗ってくれた。こうしてやってきてみると、文学館のスタッフがみんないい人だったから、ぼくとしてもやりたい気分になってきていた。生きているからできる恩返しというのは、これのことである。
賞の構想までをここに書けば長くなってしまうが、実のところ以前から、こういう賞の必要性を、ぼくは感じてきた。コード型が目立つ現状に、いくらか不安を感じるからである。そしてもしもやるなら、最終の選考委員は、自分が1人である必要があると思っている。その方が、受賞者を育てたり、受賞作品を磨いたりという型破りがやりやすいからだ。
つまりこれは、賞というよりも、ティーチインのような感覚である。そうなら賞の規模は小さい必要があるので、このように地方を舞台にするのも悪くない。ただし、募集は全国からにしなくてはならない。広島地方に限定してはいけない。I毛氏は、「島田荘司賞」にする方が作品は集まると言ってくれたが、ぼくの方は、今そんなことをする気はない。これは福山市の知名度アップという目的を含むので、福山市の名前を前面に出したいのだ。
このあと福山市の三好市長との会見が予定されていたので、館長と一緒に車で市役所まで移動するが、会議室で三好市長を待っている時、賞立ち上げの話を、島田さんの方から出してくださいませんか、と磯貝館長は言った。では実現の可能性、わずかでもあるのでしょうかとぼくが問うと、それは予算次第ですが、私はやりたいと思っています、という返事だった。
それで市長との会見の中で、2人でこの話を出した。三好市長は、井伏鱒二記念館にしようとした今の文学館だったが、そうしなくてよかったと言った。そして、今すでに館に賞はありますね、とも言った。しかしこれは子供向けの賞で、受賞作品を出版をするような性格のものではない。そういう賞は今全国に無数にある。すべて出版しない短編とか詩、エッセーの賞で、そうでなければすでに刊行された作品に与える賞になっている。ぼくがやりたいものはそういうものでなくて、まったくの新人の原稿を募集し、これを出版し、日本ミステリー界の今後をになう大型の新人を発掘しようとする趣旨の、本格的なものだ。するとこの新人はしばらく「ふくやまミステリー文学賞作家」と言われるから、福山市の名を広める目的にも合致する。
市長は、積極的に乗るふうではなかったが、無理だと否定もしなかった。あとで聞くところでは、三好市長は、かつて井伏鱒二賞を作りたいという構想を持っていた人だということであった。
それから文学館に戻って少し休み、二井岡さんの手作りのサンドウィッチを食べて、腹ごしらえをする。そして100冊ばかり、原書房の「異邦の扉に還る時」にサインをする。この本がサイン会の対象物になる。この時に如月さん、えいこさんが現れて、手伝ってくれる。やがて講演の時間が迫ったので、エストパルクに向かった。

この会場がまた、きわめて立派なものであった。控え室にいて、徐々に館内を埋めていく入場者たちを館内テレビで観ていた。そうしたら、昨日収録したNHK「お好みワイド」が放映の時間になり、誰かがNHKに切り替えてくれたので、しばらく番組を観た。
昨日の江崎さんがまずスタジオに現れ、文庫版「占星術殺人事件」を紹介してくれ、これは文化庁の翻訳プロジェクトにも選ばれた作品なのだ、といった説明をしてくれていた。誰かが、今日のは自信作だとNHKが言っていた、などと教えてくれたので、では観ようかと思っていたら、残念ながら舞台に向かう時間になった。
袖に入ったら、ラグビー部先輩の高橋さんがいた。そして、ラグビー部だった話、ちょっとしてくれる? と言うので、残念ながら今日はそういう話にはできないかもしれないと言った。そうしたら彼は残念そうに、じゃいいですですと言った。
司会者がぼくについて説明をしてくれている。それから磯貝館長が舞台に出ていって、挨拶をして、ぼくの紹介や、文学館の特別展示の説明をしてくれていた。それからぼくの番になり、出て行ったら、腰が抜けるような立派な会場で、こんなところでただ喋るだけでよいのかと、多少気が引けた。
内容は、ミステリーの歴史について、そして本格ミステリーという文学の持つ今日的な意味についてである。もう1度やっているから、さして緊張はなかった。文京区民会館の経験で、質問の時間を多く取る方がいいと知っていたので、できるだけ省略して話していった。
そして質問の時間になったら、最前列の女性たちから、本格の意味について、確認の質問があった。あとで知ったことだが、これがいちごさんや有紀さん、千日紅さんの集団であった。
作家志望らしい青年から、将来有望な方法論として、無重力本格というものがあると自分は思っている、今からその理屈を話すので、聞いてくれますかというので、お願いしますと言った。なかなか興味深い説明だった。ではそれに則った作品を期待していますよと彼には言っておいた。
質疑応答が終ったら、花束の贈呈があると司会者が言う。花束を持って出てきた人を見たら、高橋さんだった。それで彼が袖に来ていたわけを知った。そして2度目の花束のこの時、ぼくは自分が体育会系の人間であったことを思い出した。そして福山誠之館高校のラグビー部のOBが、このラグビーというスポーツをいかに愛し、いかに誇りにしているかを知った。誠之館という学校はもともと藩校で、文武両道を重んじる校風である。この花束は、高橋さんたちOBが、ラグビー部員であったことを忘れないで欲しいという、ぼくへの意志表示でもあることを、この時に心得た。確かにぼくは、たった今までそれを忘れていた。
だが忘れていたのはそれだけだ。あのスポーツが教えてくれたトライまでの不屈の意志、そういう気持ちの持続は、ぼくの内にずっと生きていると感じている。1度始めたことは、よほどの理由がない限り、トライまで放り出さないようにしている。
今回は、「ふくやまミステリー文学新人賞」の計画があることを、少しだけ話していた。きっとやるから、とはまだ言える段階ではない。実現までには、まだまだ多くのハードルがある。しかし最後に、みなさんの中から才能が現れることを期待し、待っていると言った。そしてそのためには、こうして何度でも故郷に帰ってくる、とそう言いおいて、ぼくは舞台を降りた。
それからロビーでサイン会になった。女性読者を中心に、長い列ができていて、嬉しかった。千日紅さん、いちごさん、有紀さんに、この時にはじめて会えた。千日別にさんは九州だが、北海道の小樽市から来てくれている、たかこさんもいた。この人たちとはまったくの初対面で、挨拶をした。
横で、宮田誠さんが手伝ってくれた。彼とは数十年ぶりの再会だ。こんなふうに言えばみな驚くかもしれないが、同級生の彼を、ぼくは「数字錠」に出てくる宮田君のイメージにした。高校時代、非常にスタイルのよいハンサムな青年だったが、再会してみれば、その面影はまったく変わっていなかった。シャイで控え目な様子も相変わらずで、黙々と手伝ってくれた。
全員のサインを終り、なんとなくロビーに残ってくれているみんなに、感謝と別れの挨拶をした。読者が集まるサイン会は、もの書きにいつも力をくれる。これからも、またしばらく頑張ろうという気分にしてくれるのだ。
それから、今回のイヴェントで尽力してくれた市役所の大村氏、宮田氏らと並んで、同級生たちの「囲む会」会場に向かった。その道すがら、宮田君がこんなことをぼくに言った。ちょっと行く手を指さして、あの築切町の家に君がいた時、ぼくにこんな話してくれた。すごく大きな天体望遠鏡で、ずっとずっと宇宙の果てを見ていけば、何が見えると思う? 解らないとぼくが言ったら、地球が見えるんだよと言った。ぼくは今でもよく憶えているよ。
ああ、とぼくは言い、思い出した。確かにそんな話を彼にした。宮田君は、袋とじの「占星術殺人事件」を、ぼくは文学館に寄付したんだよと言った。あれは君がぼくに贈ってくれた。最初の本が出た時に。
ああそうだったの、とぼくは言った。それは忘れていた。20年前、ぼくはそんなことをしていたのか。彼のことを、よほど気に入っていたのだなと思った。がさつで横暴な田舎にあって、彼は都会的な風貌をして、性格がぼくの好みだったのだろう。そんな彼が、変わっていなくてよかったと思った。今は、保険会社の代表になっているという。
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