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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第206回
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4−22(木)、福山誠之館高校講演。
福山市には、21日の夕刻入った。両親と妹が新幹線のホームまで迎えにきてくれていた。彼らはグリーン車のところで待っていたというから苦笑した。グリーン車になど、乗ったこともない。彼らは故郷に錦というような発想をちょっと予想していたふうなので、またびっくりする。まあ確かに帰郷は久し振りだが、こちらとしては横浜に行くのと気分は変わらない。
彼らと食事をして、福山駅前のニュー・キャッスル・ホテルに入る。翌朝目覚めるとよい天気で、福山城が眼前眼下にそびえたから驚いた。午前中の陽射しを浴びて綺麗だ。この天守閣は、ぼくが大学時代に再建しており、友人が建設現場でバイトしていた。
妹のご主人の斉(ひとし)氏が車で迎えにきてくれて、今日の講演会場、福山誠之館高校に向かう。これはぼくが在学した頃のものではなく、移転している。山すその土地をふんだんに使い、校舎もすっかり新築され、創設時代の記念館だけは移築された。ここには、できてすぐの頃、教育実習にやってきている。
玄関を入り、校長先生に挨拶にいく。校長室に通されると、歴代の校長の写真がずらりとかかっている。ぼくがいた時代の掛江校長、宮校長の写真もある。現校長の下崎先生は、腰が低い人柄のよい人であった。穏やかで、口数の少ない中にも校長らしい風格が漂う。しばらく在校中の思い出などを話していたら、マスコミが会見して欲しいと言っているという。こういうことは一応PTA会長の斉氏から聞いていたが、玄関前に出てみたらNHKテレビがいたからまたびっくりした。
夕刻の6時半から、「お好みワイド」という新番組がスタートするので、その第1弾として登場していただきたいという。チャーミングな江崎さんというアナウンサーの女性と挨拶をして、そばの、旧校舎から移築されてきた記念館でインタビュー対談の収録となる。
非常に聡明な女性で、質問も的確であったから、嬉しくなって長々熱弁をふるっていたら、もう講演の時間ですと言われる。熱弁をふるいすぎて声が枯れた。大丈夫かなと思いながら、いったん校長室に戻ったら、ラグビー部時代の先輩の高橋さんという人がいた。髪が白くなってはいたが、彼は落ちついた、立派な紳士になっていて嬉しかった。2年間彼と一緒にチームを組んで、広島遠征、米子遠征などに行った。米子では自衛隊の駐屯基地に泊めてもらい、翌朝には基地内をランニングなどして、自衛隊に入隊したような気分になった。
すぐに校長室を出て、講演の会場、講堂に案内される。非常に立派な講堂でこれも驚いた。以前に2階席もある同志社大学の大講堂で講演したことがあるが、あれよりも立派なくらいだ。高校でこんな立派な講堂を持っているところはなかなかないであろう。 入ったら、会場を埋めた1200人の生徒がいっせいに大拍手をしてくれて、嬉しかった。壇上に上がると、右手の一角には父兄の姿もある。下崎校長に紹介され、話しはじめた。

内容は以前から興味を持っている、黒船来航と開国、続いて国内に起こった富国強兵について、この時の天皇の軍隊の設計母体は、天草四郎の反乱軍なのだ、といった方向の歴史の話である。それまでの国内の戦争は、たとえば関が原に終結した両軍勢力は13万、しかし死んだものはわずかに8400、大将の首が取られると下層の兵はみんな逃げてしまう、実のところこれがそれまでの戦争だった。しかし天草四郎軍は玉砕する。これが西国武士に衝撃を与え、兵に宗教心を持たせるアイデアを思いつく。
何故こんな話をしたかというと、この原点にはまあ鎖国という、国舵取りの大きなミスがあったわけが、これの終焉と開国時、日米和親条約を結ぶなど、外交の采配を振るった幕府老中主席の阿部正弘公は、この誠之館の開設者だからである。在学時代は、この人物の業績に関してぴんと来なかったが、最近、彼は過小評価されていると感じるようになった。そのことを、母校生徒に伝えたいと思ったからである。
開国というと、薩長クーデター政府の方に光が当たりがちだが、阿部氏の持っていた海外情報の方が遥かに高度であり、無意味な空念仏のような尊皇攘夷より、彼の国政判断の方が現実的で、的確であった。続く井伊直弼にしても、開国判断に関しては大きな誤りはない。続く薩長政府による富国強兵国策、つまりは開国遠略策の方がピントがずれていて、のちの日本人に対して被害が大きい。
鎖国というのは、近代国家間戦争のテクノロジー放棄であるから、これの罪は絶大だが、これの原点には秀吉の唐入り、つまり大中国全平定という遠大な野望がある。朝鮮征伐というのは実はその入口にすぎず、半島に上がった理由は、この時にスペインが謀略的に妨害をして、まともな船が手に入らなかったからで、よって秀吉がバテレン追放令を発するのである。
まだここまではいい。しかし以降の為政者が、これに儒教的追随をした誤りは歴史にあきらかである。それでも続く徳川幕府は、当時としては最大限の手を打っていて、独占貿易を了承したオランダに、開国と同等の海外情報を国内に入れる約束をさせていた。むろんこれが大いにあまかったわけだが、当時これで完全だと考えた幕府の気分は、非常によく解るのである。当時、血なまぐさい戦国時代をようやく通過していたばかりであったから、厭戦気分は大きなものがあったろう。ともあれこの契約によって、阿部公は幕末時も正確な海外情報を得ていた。鎖国や開国時に関する日本人の理解は、かなり事実と違っていると思っている。そもそもあれは鎖国ではない、VOCとの独占貿易契約である。こういうようなことが気になっていたので、この時話した。
それから、もう鎖国は終わっているが、海外渡航が苦く思われなくなったのは実は最近であること、日本社会のおかしなところがきちんと見えてくるには、ただ海外旅行に出ても駄目で、1年程度外国に住む必要があること、そのための必要な手続きや、ヴィサの詳細などについて説明をした。そうして海外によいものがあるならば、日本に持ちかえって欲しいということ、今の日本は自殺などの問題点が多く、「日本を今一度洗濯いたし申しそうろう」という坂本龍馬の言葉を引いて、今日本を洗濯できるのは君たちの世代だけだ、と言ってしめくくった。そうしたら生徒会長とラグビー部代表が舞台に上がってきて、花束をくれた。

校長室に戻っていたら、朝日、中国、山陽など各新聞の記者がインタヴューをしたいと言ってきて、校長室は記者会見の会場となった。NHKの収録が長引いたので、彼らは講演まで聴いて、じっと待っていてくれたらしい。質問は今の講演の内容に関するものが多く、補足説明をしたら、翌朝の3新聞はみんな、「日本の洗濯を」と龍馬の言葉を引いて記事を作っていた。
さらに備後ジャーナルというミニコミのインタヴューをもう1度記念館内で受け、たまの帰郷で、大有名人になったような気分を味わった。たぶんイラクの拉致被害者も帰ってきて、紙面が平和だったからであろう。備後ジャーナルでは、「ふくやまミステリー文学新人賞」の構想について、ちょっと話すことになった。
これは、倉敷や尾道はなかなか有名なのに、その間にはさまれて、人口の規模などではずっと大きな福山市の知名度が全国規模でないため、福山の知名度アップということを言われるなら、自分ができるのはそういうことだろう、という趣旨の話で、聞かれたからそういう話をした。
これを終えて、校内の資料室を案内してもらった。ここがまったくの圧巻であった。ペリーが幕府に献上した地球儀、太陽系の立体模型、六分儀などが、東京の博物館でなく、ここにある。阿部氏が受け取り、のちにこの高校に寄贈したものという。戦争中も、なんとか無事に焼け残った。誠之館という田舎の高校が、いかに中央と直結していたかを思い知る気分であった。しかし滅ぼされた幕府の側に直結していたため、なんとなくみな、肩身が狭い思いでいるようだ。
両親が贈ったものか、ぼくの著作もガラスケースの中に麗々しく並んでいて、恐縮であった。観ていたら、放送部の女の子が2人やってきて、録音機を回してインタヴューしていった。

それから斉氏の運転で鞆の浦に行き、ここで久し振りに両親、妹夫婦、その子供たちと食事をして、今夜はそこに泊まった。鞆は鯛漁で知られる土地で、その夜も鯛の刺身が出た。
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