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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第194回
島田荘司のデジカメ日記
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2−20(金)、江戸深川資料館。
駒沢や横浜に行った翌日、母親を門前仲町にある、「江戸深川資料館」に案内する。母親も歴史マニアだからだ。時々、ほうと感心するような知識を持っていたりする。
この資料館は非常に好みで、ほとんど帰国のたびというような頻度で訪れている。江戸の下町の一角が再現されており、建物のどれにでも自由に入っていってよく、靴を脱いで座敷にも上がり込める。箪笥やみずやを開けて中の生活用品を取り出し、手に取ったりもできる。
この人工の街では、ぼくは特に棟割長屋が気に入っている。長屋というのは要するにアパートのことで、武士でない江戸の庶民は、お金持ち以外はみんなこういう賃貸しの長屋に生涯住んでいた。つまり自分の家を持たなかったわけだが、そのことを格別恥とも感じないですむようにできていた。明治に入っての文豪、夏目漱石も、森欧外も、住み屋は生涯借家だったといわれる。これもまた、こういうわが国の伝統風習のゆえであろう。
江戸は広大な緑地都市ともいえたが、それらの大半は武家の用地で、武士という特権階級は、こういう場所にゆったりと住み暮らせていたわけだが、いざ有事という際には、これらは戦場となる仕掛けだった。庶民は、こういう簡易住宅にみなでひしめくようにして住んでおり、しかしこういう庶民の居住地区は、江戸全体から見ればせいぜい2割程度の面積だった。
この長屋のひと部屋に入ってまず解ることは、押入れというものがない。ここに展示された長屋は、板、角材の裁断法、継ぎの形式から、打ちつける釘の1本にいたるまで、江戸当時の技法を忠実に再現しながら造ってあるようだが、部屋割りは、細長い建物をただ薄い壁で仕切っただけのごく簡単な造りである。だから各部屋、押し入れはない。では布団の類はどうするかというと、畳んで部屋のすみに置いて、衝立を90度に広げ、これを手前に置いて隠すのである。ここでもそのように造ってあって、夜具と衝立が角に置いてある。
それから当然だが、室内に水道というものがない。足もと土間に、水を溜める大きな甕がひとつ置いてあるきりである。主婦は表に出て、井戸で水を汲んできてこの甕に溜め、適宜汲み出して使う。
お湯を湧かすのはへっついで行う。へっついというのはかまどのことであるが、これが家によっては障子や襖などにごく接近している。いつ紙に火が移ってもおかしくない。だから江戸には異様に火事が多かったし、こういう危険が身近にあるので、その管理には、上位者からの道徳糾弾が厳しくなりがちだった。
江戸庶民の食事形態は、しかし今日と較べれば一面簡単ともいえる。作る側の負担が、今日よりは軽かった。まず毎日の食事は朝と夕の2回だけで、昼食というものを食べる習慣は、明治期まで基本的になかった。たとえばお侍が、お城勤めとか、戦の激務で腹が減るので昼にも何か食べようとするような際は、これは間食(なかじき)と称して、むしろ特殊なことだった。
また朝は、長屋の井戸端会議場あたりまで振り売りが入ってくる。これは食品を入れた樽や篭を、担ぎ棒の前後にぶらさげた行商人のことだが、彼らが佃煮や干物、煮物漬物など、調理済みのお惣菜を持って売りにくるので、主婦はこれを買ってきてただ皿に盛るだけ、ということが多かった。冷蔵庫がないのだから、毎朝食事のたびに買うのがよい。だからこの頃の主婦の朝の仕事は、ご飯を炊くこととおみおつけを作ることくらいである。
しかも食べ終わった夫や子供の食器は、毎回必ず洗う必要はなかった。これは長屋各部屋のみずやに実際に用意されているが、家人各人に、茶碗や汁椀、箸の入った箱型の容器が割り当てられていて、各自これを出してきて、蓋を取って逆さにして箱の上に置く。これが自分の膳になった。その上に茶碗、汁椀を載せて、母にご飯や汁をよそってもらう。団らんのための食卓というものは、狭い長屋には基本的になく、座布団という生活のツールも、江戸末期にいたるまで、芸者のいる店にもなかった。
食べ終わったら、ご飯の入っていた茶碗には白湯かお茶を注いでもらい、欠片を掃除しながら飲み干す。後は和紙でもってぐるりと拭いて、そのまま伏せて容器にしまい、蓋をする。こうして食事を終える回も多かった。だから主婦は楽ともいえた。
嫁のいない男はどうしたかというと、表に出て道を歩けば、振り売りが出張して来て、沿道のあちこちで店を開いていた。蕎麦を売る者、稲荷寿司を売る者、海の幸を食べさせる者もいた。今で言えば郊外レストランのようなもので、やもめたちはこういうところで買い食いをして、空腹を充たしていた。こういう振り売りたちの商売道具も再現され、館内の路上に置かれている。
そもそも主婦というものが、江戸という街には少なかった。江戸は開拓地であったから、開拓地は土地柄が粗暴で、気のきいたセンスのものがなく、今で言うと、格好よい喫茶店やブティックがないようなもので、女性たちは進んではやってこない。だから嫁の要員が少なく、長屋で嫁をもらえた男は、それだけで果報者だった。だから誰それのところに嫁が来たぞというと、入れ替わり立ち替わりみなが見物にきた。嫁がへっついで火を起こす時、火拭き竹を使うわけだが、すると竹の口もとに紅が付く。新郎はそれを持って、周囲のやもめに見せびらかして歩いた。だから江戸の長屋集落では嫁は大事にされることが多く、労働を厳しく強制されたりはしなかった。
しかしそういう街であるから、江戸には新吉原とか、無数の岡場所など、精液排出装置が必要になった。長屋に住み暮らすやもめたちは、いずれ家を持たねばというようなプレッシャーがないものだから、ちょっと金が入っても貯金の習慣はなく、宵越しの金は持たねぇ式の発想から、吉原に繰り出してぱっと遣ってしまった。
この吉原には、たいてい浅草のあたりから、裏田んぼのあぜをてくてく歩いていったが、少し見栄を張ろうと思えば、猪牙(ちょき)という伝馬船で乗りつける。これは大川、今の隅田川から漕ぎ入って、日本橋堤に降りた。そうすると船宿があり、ここでも散財させられることになる。こういう猪牙の船着き場や船宿も、この館の一角には再現されている。
こういう庶民の散財を諌める者はいて、それが大家だった。「店子といえば子も同然」という言葉があるが、長屋に入ればそこの大家の子供になるようなもので、住人の生活管理、嫁の素性のチェック、結婚の成否までを大屋が判断した。
だから子供らが出すもの、生活の廃品、糞尿やかまどの灰まで大家に帰属する財産で、これらは肥料として農家に売られて大家の懐に入った。しかし述べたような質素な食生活なので、ゴミが出ることはほとんどなかった。長屋建物のそばには、主婦たちの井戸端会議の場所、文字通り井戸の脇の洗濯場や、ゴミ捨て場も再現されてある。中を覗いて見れば、捨てられたゴミはごく少ない。
ここで汲める井戸水は、実はこの地の地下水ではなく、吉祥寺の井の頭公園の涌き水などが延々と引かれ、江戸下町にまで届いたものだ。というのは江戸は家康家臣による埋立地だから、井戸孔をうがっても出る水は塩水で、飲料には適さなかった。
井戸端にはトイレもあるが、しゃがんでも頭が覗くような小さな隠し戸しかついていない。女性も、こういうところで表の仲間と会話しながら用を足した。まことに隠すものの少ない、開放的な生活だった。

というような講義を、この博物館に来るたびにやることになる。この時も、母親にあれこれと熱弁を振るっていた。このような、手で直接展示物に触れられるかたちの博物館はこの頃のトレンドで、ぼくはまことに気に入っている。ラーメン博物館ができた時も、まああれはただの飲食モールではあるが、この流れにあるものと了解して気に入った。
資料館の前の土産物屋に、ちょんまげの鬘をかぶった名物おじさんがいて、いろいろな土産物を、解説実演つきで売っている。テレビのワイドショーなどにもたびたび登場しているそうである。母親は彼がおおいに気に入り、長々相手をしていた。
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