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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第193回
島田荘司のデジカメ日記
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島田荘司のデジカメ日記
2−19(木)、駒沢の島田家跡。
妹の息子の受験の付き添いで母親が上京してきたので会う。母親というのは、ぼくにとってということで、受験生当人にとってはおばあちゃんである。彼が受験している間、母を車に乗せて、子供時分を過ごした駒沢の家の跡に案内した。旧住所表示ではこのあたり、目黒区大原町と言っていた。今は目黒区八雲と言うらしい。これは何故なのであろう。文豪小泉八雲がこのあたりに住んだという史実もないはずだが。
最近、「占星術殺人事件」の英訳やら、全集、完全改訂版のための手入れのせいで、このあたりのことをよく考える。読み返してみると、特に後半、この周辺について割合詳しく書き込まれている。だから車を飛ばして、このあたりに行ってみることも割合するようになった。それだから思いついた。
この作品の中で、梅沢家のモデルにした土塀付きの屋敷は、今も健在である。ぐるりを巡る白塗りの塀の上に、鬱蒼とした木立が今ものぞいている。子供の頃は、この屋敷から発生練習をする女性声楽家の声が毎日聞えていた。同じことを何度も繰り返すので、すこぶる退屈だった。あの人は音楽家として大成したのだろうか。今はもう、表の道に立ってみてもそんな声は聞こえない。ごくひっそりとしている。
かつて島田家があったあたりは、もうすっかり変わった。昔の家は跡形もない。もともとここは何かの町工場だったらしくて、庭の黒い土の上には、こまかな銀粉が無数に浮いていた。そんな様子も、もううかがうことはできなくなった。家があった敷地いっぱいにマンションふうの住居が建ったからだ。マンションではない。たぶん個人の住居であろうが、敷地を2分割して無理に2軒を建てたので、上に向かって伸びるしかなくなって、ビル的な外観になったのだ。
母親はまだ元気で、足も丈夫だから何度も上京しているが、こういう家が建ってからここに来るのははじめてだったらしく、感慨深げである。家の前で記念写真を撮り、あたりをぶらついている時に、ぼくもはじめて聞く衝撃的な事実を、いきなり話しだした。
どうやら母も最近知ったようだが、この小さな家は、買った当時は歌手で女優の、当時大スターだった雪村いづみさんの持ち家であった。であるから、当然ながらこの家は彼女から購入したのだが、雪村さん自身はこの家に住んではいなかった。彼女の邸宅は別所にあって、ここは後輩の浦里はるみさんという女優に貸していた。ここまでは、ぼくもよく知っている話だ。
浦里さんは宝塚の出身で、才能もあった人のようだが、雪村さんほどに有名ではなかった。今そう言って、彼女の名前を知っている人は、よほどの通であろう。この家には、そのはるみさんと彼女の妹さん、それに2人の母親が住んでいた。しかし母親が、女優のはるみさんばかりを溺愛し、妹をないがしろにするので、ある晩彼女は自室でクビを吊って自殺をしたという。その死の部屋こそは、ぼくが小学校時代、自室にして勉強したり眠ったりしていた部屋だった。
今さらながらぞっとした。まったく知らなかったことだからだ。不動産屋としても、話せば家の値が下がるから当分秘密にしていたらしい。母親も、知ったのは割合最近であるという。しかしまあ、こちらとしても知らない方がよかったろう。
この手の話は怪談的な連想を呼ぶから、いくらでも後で話を作れるだろうが、ぼくがミステリーに目覚めたのは、まさしくこの部屋においてだった。江戸川乱歩を読みふけり、妙にぞくぞくする気分を絶えず背に感じながら、いくらでも怖い話が湧いて出た。夢の啓示を受けたことも何度かある。それらをせっせと大学ノートに書きとめ、小説にしたり、漫画にしたりもした。彼女の霊がぼくにそういうストーリーを与え、ぼくを作家にした、そういう発想には、つい同意したくなる。
しかしまあ、これらは単にこちらの思い込みであろう。けれどもちょっと不思議なのは、「涙流れるままに」とか、「北の夕鶴2/3の殺人」で、通子が殺してしまう行きがかりになった近所の子供、これが運び込まれ、苦しんで死ぬ部屋、この描写をしている時に、ぼくの眼前にはっきりと浮かんでいたのがこの部屋だった。壁の様子、窓の様子、入口にある引き戸、別にあの部屋あたりが適当だと考え、計算して使ったわけではない。描いていったら自然に浮かんだ部屋があり、今思えばそれはあの部屋だった。まったく間違いがない。
あの部屋で、子供が苦しむ様子がはっきりと見えた。あの作では、続いて通子の義母もこの部屋で死ぬ。この断末魔の様子も、あんまりリアルに見えた。そう考えればだんだんにぞっとするのだが、浦里はるみさんの妹さんも、あのような死に方をしていなければいいがと思う。まあ、不思議なこともあるものだ。

これ以外では、死んだ弟量司の、子供時代の武勇伝をいろいろと聞いた。家の近くには、自由が丘に向かう自由通りと駒沢通りとが交差する交差点がある。ここの北東の角に、今でも小さな郵便局があるのだが、まだ幼稚園児か小学校1年生くらいだった弟は、よくこの郵便局に遊びにきたらしい。ここの局員が、自分は20数年郵便局員をしているが、郵便局に遊びにくる子供はお宅のがはじめてです、と母に言ったという。
南西の角は、今は緑地になっているから何もない。これは、ここをオリンピック用の競技場と緑地にするため、強制的に立ち退かせたゆえだが、当時はここに、古賀屋という塩や味噌や醤油を売る店があったそうだ。当時は塩や砂糖は秤売りで、大樽に入って店頭に置かれていた。弟は猛烈な甘党で、これはぼくも憶えているが、砂糖を舐めさせてやると言えば、なんでもこちらの命令をきくありさまだった。そこで彼はこの店に侵入し、店頭に置かれている白い粉を砂糖と思って指でとって舐め、なんだ塩かと言ったと、後で母親がこの店の主人に文句を言われたそうだ。
あるいは近所中の屋根に片端からあがって、いったい何を探していたものか、次々に瓦をはぐって下を覗いて廻った。それでこの時もまた、母親が近所に詫びを言って廻った。まあそのような変わった人物で、だから生きていたら今頃、警察の厄介になってぼくが支援活動でもしているか、それとも糖尿病で寝たきりであろう。
まあ幸か不幸かそのようなことにはならず、オートバイで事故死するのだが、そのおかげで太ってしまったと母親は言う。彼が生きていた当時、先述のようなこととか、これ以外にも家の前の車道に飛び出し、何度も車に急ブレーキを踏ませるので、気の休まる時がなくて太れなかったのだという。
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