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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第190回
島田荘司のデジカメ日記
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2−4(水)、みなとみらい線の見せる横浜。
東京に戻ると、すぐに横浜に行ってみた。1日に開通した横浜の地下鉄、「みなとみらい線」に乗ってみるためだった。この線がみせる横浜の新しい表情はどんなふうか、興味があった。
みなとみらい線開通の様子は、アメリカでもニュースで観ることができた。西海岸には「JAPAN TV」というテレビ局があり、NHKを中心に、おもだった日本の番組を買ってきて、日本人向けに流している。この中のNHKニュースで、一番乗りを目指して並んでいる鉄道マニアの徹夜組を観た。
「汽笛一声新橋を」の時代から見て、ほとんどそれ以来というまでの大きな変化ではあるまいか。横浜は、昔は文字通り「横方向に延々と長い浜」で、鳥のくちばしに似た長い長い砂州だった。横浜村は、その上に細々とできた漁民たちの集落で、当時は訪れる者もさしてなかった。開国で、江戸幕府がその根もとを運河中村川で切断し、「関内」という島にして異人に提供したが、これが大発展して、ついにその下にトンネルを掘って鉄道を通すまでになった。
時差ぼけがあるから、日本に戻ってしばらくは早起きが苦ではない。関内に早朝車で入り、終日の駐車場に入れておいて、海べりを歩いてみた。みなとみらいから見る海は清潔そうで、空気も澄んでいるから、ヨットの帆型のホテル・コンチネンタルがくっきりと見える。
赤レンガモールの北西に残る、横浜港駅のプラットフォームに立ってみた。ここは昔、プレジデント・ウィルソン号などの大きな船が横浜港の大桟橋に着くと、その時だけ電車がここまで入った。ここはそういう臨時の駅だった。引込み線のレールはむろんもう撤去されたが、プラットフォームだけはこうしてぽつねんと残り、公園のモニュメントのように見える。朝が早く、周囲には誰もいない。けれど陽射しはよいのであまり古くは感じられず、不思議な芸術作品のようだ。このプラットフォームに着く列車は、もう永久に存在しない。
赤レンガモールをすぎ、万国橋を渡り、馬車道に入った。喫茶店を見つけたので、モーニングセットでも食べようかと思って入ったら、まだ時間が早くてやっていなかった。

みなとみらい線の馬車道駅が見えてきた。馬車道へのとっつきで、以前は歩道橋があり、その後は地下横断通路に変わった場所だ。その地下通路の中途に、地下鉄の駅もできていた。
真新しい改札口を抜けてみた。当然ながら何もかもが新しく、広々としている。全体が沈んだ色調に作られ、よく計算された眺めで、使い勝手などは1度では解らないが、建築的にもデザイン的にも優れたできと感じた。
まだ朝なので、行きかう人は少しせかせかしている。しかし東京の各駅に較べればずっと落ちついている。石岡君もまた、こういう人の群にまじって歩いているはずだ。しかし御手洗さんは、この駅をまだ知らない。
さらにエスカレーターに乗り、ずいぶん深い位置にあるプラットフォームまで降りる。なんだか、地の底に沈むような感覚だ。はじめてだと、特にそう感じる。その昔ペリーが降り立ち、踏みしめた砂の、そのずっと下に駅がある。
入ってきた電車に乗る。東横線が乗り入れているはずなのだが、これがそうなのだろうか。なんだか電車も新しく、東横線には見えない。
元町・中華街で降りる。というより降りるしかない。その先にはまだ線路はないのだ。また長いエスカレーターであがって、明るい地上に出る。この駅には、ずいぶん人出があった。みんな観光客ふうの人たちだ。東京方面から来たのだろうか。中華街に食事に来たのであろう。地上出口には、警備員が2人立っていた。しばらくは混乱が予想されるからだろう。地下から出てきた客に、道を教えたりしている。
街に歩み込めば、電車で乗りつける中華街は、また全然表情が違って見えた。山下公園からくれば、いつも中華街の門をくぐる。しかし地下鉄ならそうはならない。まるで知らない一角に迷い込む。
午前中の陽射しに浮かぶ原色の店々。新しい店、それとも改装したのか、そんな店も多く、新鮮だ。人出があり、ここはいつも活気づいている。地下鉄が足もとに入ってきて、ここはまたエネルギーがチャージされたようだ。LAやサンフランシスコのチャイナタウンより、横浜中華街はずっと生き生きして見える。

適当な店に入ってランチ・セットを食べ、石川町の方角に向かってぶらぶら行った。実は、目指す場所があったからだ。「散歩の達人」という雑誌を見ていたら、「異邦の騎士」に登場したジャズ喫茶「ミントンハウス」がまだあって、昼間は「ハッカ茶館」という純喫茶になっているという。
実はぼくは、ミントンハウスはもうなくなったものと思っていた。そうしたらまだあるばかりか、夜間高校みたいに昼夜の2部制になっていて、昼には別の経営者がいるという。それで、ちょっと覗いてみようかと思ったのだ。
店の前に出たら、懐かしいことに、まったく変化していなかった。薄暗い店内に入ったら、内装もまた20年前と寸ぷん違わない。こんなに変わらない店も珍しい。
いやそういう発想自体が東京的のものであって、イギリスなど特にそうだが、東京以外ではみんなこんなものなのだろう。
丸眼鏡をかけた人懐こいマスターがいて、話しかけてくれた。椎根さんといい、もとマガジンハウスの編集長だったという。アンアン、ポパイ、平凡パンチ、一時代を作った有名雑誌三つの編集長を務め、勇退した。以前からたまっていたこの店で飲んでいたら、マスターの川上さんとの話で、昼間はここが空いていると知った。よしそうなら自分が喫茶店をやってやろうとかって出て、それでこうして昼間はここにいるのだという。けれどNPOですよと言って笑った。全然儲けにはならず、まるきりヴォランティアだと言うのだ。
彼は面白い経歴を持っていて、昔本牧に米軍基地があった頃は、このあたりに黒人兵が大勢たまっていた。この店のすぐ裏手には彼らと踊れる店があって、そこに行けば最新鋭のステップが仕入れられた。憶えたら、翌日にすぐ編集部に出て、雑誌の記事に仕立てた、そんな時代について話してくれた。
黒澤の映画、「天国と地獄」に出演したある画家の女性がいて、彼女とも親しくて、よく裏話などを聞いたという。この映画のロケ場所も知っていて、あれこれと教えてくれた。横浜の生き字引のような人物だった。
三島由紀夫ともいっとき親しくした。若い頃の彼は元気がよく、三島さんの前に行って、ぼくはこれからあなたの悪口の記事を書くからよろしく、と宣言した。三島氏は、ああそうかいとだけ言った。それで三島のスポーツ好きについて、剣道もボクシングもまったくなっちゃいない、というような記事を書いた。しかし三島氏は少しも怒らず、おまえ、しばらく俺と剣道をやらないかと誘ってきた。それて碑文谷警察の道場に通って、2人でしばらく剣道の稽古をした、といったような思い出話もしてくれた。その時の、三島氏と写った写真も見せてくれた。
店内のコーナーには文庫本がたくさん並んであったので、何気なく見ていたら、なんと「異邦の騎士」が混じっていた。店の常連客の誰かが持ってきて、この店が出ているよと、寄付していったのであろう。これはとても嬉しかった。

店を出て、また元町・中華街駅まで歩き、地下鉄に乗ってみなとみらい駅で降りた。ここはとりわけ深い場所にあるふうで、地上に出るまでのエスカレーターは、長い長いものだった。水をたたえた日本丸のドックもあるのだから、線路は当然深くなるのであろう。出てみると、そこは日本丸の見えるさくら通りではなく、1本裏のけやき通りだった。クィーンズ・スクエアの裏手にあたった。
桜木町駅まで行ってみたら、JRの桜木町駅は健在だった。けれど東横線の出口はシャッターが降り、もう閉鎖されている。ひとつの時代が終ったというふうだ。ぼくの小学校時代は東横線とともにあったから、多少の感慨が湧く。ぼくにとってこの電車は、高度経済成長のイメージだった。レールが撤去されたのちは、東横線の路面はたぶん遊歩道になるという。勤労の時代から余裕の時代へ、といったところだろうか。
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