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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第180回
島田荘司のデジカメ日記
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10−28(火)
小雨の中、車で五日市街道を西へ向かう。小金井公園で右折し、「江戸東京たてもの園」に行ってみる。ジブリの、「千と千尋の神隠し」に出てきた風呂屋とか、都電がここにあると聞いたからだ。
江戸東京たてもの園は、小金井公園の中にある。この公園は学生時代からよく来た馴染みのある公園で、当時から比較的広い、しかも無料の駐車場があったので、よく来た。けれども公園に何があるということでもなくて、ただだだっ広い芝生があっただけだ。そんな頃、敷地の北側に小さな建物が並び始めていて、どうやら古い建物を移築しているらしいとは解ったが、こんなに立派なものができるとは思っていなかった。
駐車場は有料になっていた。傘をさして公園内を歩き、案内表示に沿ってたてもの園をめざす。正面玄関となる建物は、昭和15年、真珠湾の前年に皇居前広場に建てられた「光華殿」というものだそうだ。これを移築してきて、園の正面玄関兼ビジターセンターとして今は使用している。
階段をあがってこれに入ると、正面が切符売り場で、右手が土産物売り場、左手は季節変わりの展示のフロアになっている。奥には常設の展示コーナーもある。
切符を買って裏手に抜けると、階段を降りたった先に、小雨に煙る、古き佳き初期東京の街並みがひろがった。少し規模が小さい明治村で、こんな近くに、こんなにいいものがあるとは知らなかった。
左手を奥まで進むと、ここには大型の農家が何軒か、展示保存されてある。三鷹市や、八王子市にあった農家らしい。引き戸の入口を入ると、広い土間があり、このすみにはへっついがあって、一段高い畳の間には囲炉裏が切ってある。畳は襖で仕切られていて、すべてとりはずせばずいぶん広いフロアになりそうだ。
けっこう懐かしい思いがするのは年輩者だからで、子供時代を過ごした福山市の実家には、さすがにもうこういうものはなかったが、パスなど乗り継いでもっとずっと草深い田舎にまで行けば、親類たちはまだこのような家に住んでいた。いつも思うことだが、これは吉野ヶ里の住居遺物と、構造的には変化がない。囲炉裏の上には煙突などないから煙は室内に充ちたろうし、土を踏み固め、上を掃き清めただけ土間は、弥生時代の住居と考え方は同じだ。建物の規模が大きくなり、畳が取り入れられ、煮炊き用のへっついが土間に入ったというだけのことで、日本人は生活構造の抜本的な改善や、必要な装置の発明によって事態を進化させることには、あまり興味がなかったのであろう。先達が作った装置はそのままにして、あるいはこの改善は最少にして、その使用技術にせいぜい熟達しようとする傾向がある。これは人間関係を教育的、糾弾的にして厳しさも生んだが、世界に冠たる職人芸を獲得させもした。
濡れた落ち葉を踏んで東の方向に向かえば、田園調布の大川邸とか、品川区上大崎の建築家、前川国男邸がある。今ではこれらはごく普通の家だが、前川邸は、昔建築雑誌などで見た記憶がある。このセンスは、今も古びてはいない。このようなすっきりした家は、今日では軽井沢などに別邸として建つ傾向がある。
大川邸こそは懐かしい。子供時代を過ごした家は和風だったが、たいていどこの家にもこうした、欧風の応接間が増設されたものだった。各展示住宅には靴を脱ぎ、自由に上がり込める。大川邸のような家は使い勝手がよく解るが、アメリカの家々も知った今は、ともかく狭い、軒が低いという印象がくる。それが壁でしっかりと仕切られるものだから、ますます狭い。
手本にしたはずの欧米の家々からすれば、これは4/5くらいのスケールの、欧風住居模型といった印象だ。こういうものがちんまりと田園調布を埋めていき、当時の日本人の体型も、欧米の4/5だったのであろうか。つい先年のことなのだが。しかし、旧式の農家の方が広いことには、妙な皮肉を感じる。
高橋是清邸があった。2階には、ふんだんに板ガラスが使われたガラス戸が、回廊外側を巡る。これもまた回廊と書くのは気がひけるような小ぢんまりした縁側なのだが、今日はなんでもないこうした板ガラスも、明治35年に建てられた当時は大変に高価なものであった。大蔵大臣高橋是清は、二二六事件時、青年将校に襲撃されて命を落した。この家がまさにその襲撃の家らしい。これは歴史の遺物だ。
表の雨で薄暗い床の間に、「不忘無」と書いた掛け軸が下がっていた。どう読むのかしばらく解らなかったが、これの前を離れてから、「無を忘れず」だと気づいた。金もなく、地位もなく、名前もなかった無の時代を忘れまいという戒めで、そうなら気持ちがとてもよく解る。無名時代のブルース・リーは、壊した眼鏡のつるの修理代がなく、自分で針金で修繕して使った。この眼鏡を、香港でスターになってからもずっと自分のデスクに置いていた。「初心忘れず」のこういう発想は大事だが、しかし彼はこの眼鏡を毎日見ながらも、傲慢になったとさかんに仲間に言われることになる。
園内には、展示の家を使った飲食店もある。うどんを食べさせる専門店もあった。
やや床のきしむ座敷にすわり、小雨に湿った庭木をガラス越しに眺めながら、蕎麦を食べるのはなかなか気分がよかった。
「千と千尋の神隠し」に使われたという風呂屋は、東のはずれにあった。けれども、あの映画に出てきたような高層建築物ではなく、街でよく見かけるただの風呂屋だ。名前は「子宝湯」というらしい。略図によれば下町中通りと命名された通りの正面に立ちふさがる。通りのとっつきに立って子宝湯を眺め、背後を見ればそこにはアイヴォリィの都電がある。宮崎駿さんがこの園内が好きでよく散歩をしていて、この中通のあたりで「先と千尋の神隠し」の風景を一部思いついたらしい。子宝湯に裾を足して天にそびえさせ、この都電に水の中を走らせたということか。薄い水を走る都電は実に共鳴できる風景で、ぼくは大変好きな場面だ。
この通りには、好きな看板建築が多く移築され、保存されていた。神田神保町に建っていた荒物屋、丸ニ商店。壁を被った無数の銅板には「青海波(せいがいは)」と呼ばれる波模様が浮き出しているが、これは江戸時代からある模様だという。確かにこれは、江戸小紋のセンスだ。華美を諌めるために考案された質素な図柄が、時代が下れば庶民の家の外壁も飾った。
上野池之端にあった村上精華堂。これは外国の資料を渉猟し、参考にして化粧品を自製し、小売りしたり卸売りをしていたという。この建物は、イオニア式の石柱を建物の外壁に取り込んだ奇抜なデザインになっていて、村上店主は、当時時代の先端を行く大変な勉強家だったのであろう。遊び心の乏しいとされる日本人だが、明治や江戸の頃は、決してそうではなかった。
村上精華堂の作った化粧品は、クリーム、椿油、香水などであったという。そういえばハリウッドの悪役で一世を風靡した上山草人も、新橋にくすぶっていた貧乏時代、眉墨を工夫して売り、生計をたてていた。文明開化は、女性の化粧品にとっても開化の時代で、新しい化粧品や化粧方法が数多く世に出た。江戸時代の白粉には大量の鉛が含まれていて、肌に危険なものであったと聞く。
看板建築の模型を見つけた。畳の床を持つ3階建て、看板の手前にはちょっとしたパティオもあり、これはまさしく乱歩的な舞台装置だ。「D坂の殺人事件」の世界で、こういうものの見ればたまらない気分になり、何やら体内に、物語が胎動しはじめる心地がする。
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