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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第174回
島田荘司のデジカメ日記
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8−18(月)、ロウワー・マンハッタン。
セントラルパークの北、ハーレムに近いあたりをぶらつくと、黒人の母と息子が2人で野球をしていた。母親がグラブをはめ、息子に投球し、彼がこれをバットで打つといったなかなか高度なやり取りだ。しばらくベンチにすわって見ていたら、ボールがこっちに転がってきたので、拾って母親に投げてやった。手にすると、驚いたことにボールは真新しい硬球だった。こっちには、ゴム製の軟球はなかったのだと思い出した。
日本の子供は、自分の子供の頃を思い出せば、こんな小さな頃から危険な硬球で野球をやるなど考えられない。「トップ」と呼ばれていたその中間のようなボールがあり、上級者になるとこれを使うくらいがせいぜいだった。
それにしても黒人の母親は大したものだと思った。息子と硬球で野球ができるのだ。日本の母親には、ちょっと真似ができない芸当であろう。黒人の息子は、まだ小さいこともあるが、見ている限りではそれほど才能があるようには見えなかった。日本の子供の方が(もっとも今の子のことはよく知らないが)、水準は上だろうと思う。
日本は、ほかはともかく、野球の水準だけは高い。イチローがこちらでたちまちトップになれたことを見ても解る。こちらのテレビで大リーグのスポットCMが流れた時、イチローが1人だけ写ったことがある。彼はもう大リーグを代表する顔なのだ。母親は、この息子がボンズやイチローのようになって、自分をハーレムから連れ出してくれることを夢見ているのかもしれない。
地下鉄で42丁目、タイムズスクエアに出た。もう1度カップヌードルの看板を見る。何度見ても馴染めないが、まあ赤いキツネや、緑のタヌキよりはましであろう。
サブウェイのサンドウィッチを買って、近くにあった噴水の広場で食べ、市立図書館まで歩いて、一対のライオン像を観た。実はこれを観ることも、この訪問の目的だった。理由はこれから書く長編、「ライオン大通り」を読んでもらえたら解るだろう。この図書館は、「ゴーストバスターズ1」の冒頭に現れていた。
何故か、このライオン像にも強いノスタルジーが働く。銀座の三越にも確かライオン像があったはずだが、これは印象が薄い。渋谷のハチ公の場合はけっこう濃い。この違いの理由は、周囲に広場があるかないかであろう。NY市立図書館の2つのライオン像も、周囲には広々としたスペースがある。ライオンの足もとで若い画家が、図書館前の風景を、魚眼レンズふうの視界で、丸い板に描いていた。このやり方は意表を突いたらしく、彼の背後には常に人の姿がある。
こういう様子も、井の頭公園ではなかなか見ない。戸外で描く絵は、日本人の場合はやはり具象の風景画となる。いけないと言っているのではない。NYのこの画家の筆致は、個人的にはそれほどひかれなかった。
図書館の周辺をゆっくり観てから、ロウワー・マンハッタンに向かった。マンハッタン島は、すでに説明したが、南端のロウワーマンハッタンから開けていった。かつてニュー・アムステルダムと呼ばれたのは、ロウワー・マンハッタンの一帯である。街並みはその後徐々に北に向かって延び、そういう発展の以前にグリッド状の道路を敷いておく決断をした市の先見は、さすがであったと思う。
1853年に第2回万博がマンハッタンで開かれたが、この会場となったのがミッドタウンの、まさに今タイムズスクエアとか図書館のある42丁目付近であった。当時、島の南北方向の中間にあたるこのあたりは、まだ大半空き地状態だった。
ロウワー・マンハッタンは、そういうわけで歴史的建造物が多い。イギリス統治地代、ここはイギリス寄りの勢力が多く住んでいたらしいが、地方の要請に押されるかたちで独立戦争に入り、ジョージ・ワシントン率いる独立軍は、現在のハーレムのあたりに拠点を置いていたらしい。パール・ストリートには、勝利後、独立軍が解散式を行ったフローンセス・タバーンが再現されてある。イギリスふうの家で、これはカメラに収めた。
自由の女神への観光船は、「地球の歩き方」によれば半日待ちの大行列らしい。そうまでして乗る気はなかった。自由の女神見物などは観光客に任せておけばいいと思ったのだが、ロウワー・マンハッタンを海上から眺めることはしたかったから、すいている船はないかと、サウス・ストリート・シーボートの乗り場に向かってみた。この時に、リンコさんの「笑うニューヨーク」が役に立った。イースト・リヴァー沿いのショッピングモール前の売り場に行ってみたら、ティケットなどすぐ買えた。ここは穴場なのだろうか。乗った大型船も、ほとんどガラガラと言いたくなるくらいにすいていた。
船は、出港するとまず東に進み、ブルックリン橋を観せてくれてから、Uターンして西に向かう。、マンハッタン島沿岸に沿ってゆるゆると走り、島の摩天楼景観を観せる。これはマンハッタンが島だからできることだ。東京なら、山手線をこの船にできるだろう。東京の高層化がさらに進み、もっともっと美しさを増したなら、山手線にレストラン電車走らせるのがいい。内側だけをガラス張りにして、テーブルはそちら側だけに並べる。山手線の上にまで建物が覆い被さる時代になっても、内側だけはこの観光電車の景観のためにあけておく。そんな夢を、「都市のトパーズ」に書いた。
ビルのすきまから覗くニューヨーク市庁舎は、どこか華奢な感じがあって綺麗だった。マンハッタン島にそって西へ向かい、右に旋回して北上する。するとやがて見えたはずの2本の尖塔、貿易センタービルが失われていた。この時この2本のポスト・モダン直方体が、いかにこちら側からの眺めのアクセントになっていたかが解った。これが屹立してあれば、この時の光線は順光だったからさぞ美しかったろう。
進む船から望むアールデコ・ビルと、モダン以降のガラスのビル群との混合体は、やはり至上の美というまでには感じなかった。水晶群のようなガラスの尖塔だけの屹立、あるいはアールデコの石積みの塔のみの群れ、そんな様子なら、もっと感動していただろう。しかし、早くから拓けたロウワー・マンハッタンを、ガラスの尖塔だけにするのはむずかしかったろうし、あと50年も待てば自然にそうなるかもしれない。
そしてもうひとつ、この時に感じていたことは、マンハッタン島の摩天楼群は、もう決して高くはないということだった。われわれの目は高層ビル群、特にポストモダンのビルの高さを見なれてしまった。そして映画でテレビでポスターで、貿易センタービルのシンプルな2本が脳裏に刷り込まれてしまっている。これがない今、マンハッタン島をむしろ低く感じたのは、自分でも意外な発見だった。
1956年、都会嫌いの田園派で知られる建築家フランク・ライトが、高さ1600m、528階建て、10万人収容の超高層ビルをシカゴ市に提案した。むろん苦笑で迎えられ、実現はしなかったが、こうしてややのっぺりとしてしまったマンハッタン島を海上から眺めていると、あのビルは決して荒唐無稽な夢想ではなく、充分に実現可能な提案だったという感覚が来た。エンパイア・ステート・ビルの5倍ほどの高さ。この世界最先端の島に、今ならライトのそういう尖塔もあっておかしくはない。むしろ自然に感じられる。
1908年、マンハッタンの実業家の一団がバルセロナまで出向き、あのアントニオ・ガウディに超高層グランド・ホテルの設計を依頼している。これはスケッチが遺っているが、外観は彼好みの、例のとうこうもろこしのような、それとものっぽの吊り鐘のような形状で、石積みだが外壁面はすべてわずかに傾き、鉛直な稜線はどこにもなかった。こういう型破りの姿に加え、高さも無茶なものだったから実現しなかったというのが一般的な認識だが、これは誤りで、高さは確かにクライスラービルよりも高かったが、エンパイアー・ステート・ビルよりは低い。ライトのものに較べれば、決して実現不能の高さではなかった。設計当時、まだ周囲が低かったから、たまたま群を抜いていたというだけだ。ただしこの時のガウディは、マンハッタン島が何であり、どこにあるのかも知らなかったろう。
「海の上のピアニスト」という一種のおとぎ話の映画があるが、これに、マンハッタン港を降りようとする主人公が、圧倒的な摩天楼群を目の前にして、渡り板の上で引き返す場面がある。映画に現れたマンハッタンの景観はマットアートだったが、この時のマンハッタンの光景が、アールデコまでの建物の群れで、ぼくにはけっこうぐっとくるものだった。ああした場面は、やはり石積みの塔の前でなくては説得力が出ない。
ノスタルジーと言えばそれまでだが、もっと論理のある法則性が、ここにはありそうに思えて仕様がない。「摩天楼」という詩的な翻訳語、これはたとえば「夢枕」などと言う言葉にも似て、えも言えぬ開放的で、空間的な響きがある。これは天に昇ろうとする人間の意志を示す言葉だ。バベルの塔以降のこういう人の営為は、石を積んで行う。それがミース以降、散文的な最大多数フロア装置の名前に格下がった。これは芸術の特権主義を捨てた、民主的なありようともいえるが、フロアの数だけを堅実に見ており、目は天を向いていない。モダン以降、この「摩天楼」という言葉はなんとなく使われなくなった。大衆は鋭いもので、述べたような構造に、本能的に勘づいているのであろう。
あるいは、エラリー・クイーンという作品群の立つ位置も、あるのだろうか。エラリーの絶頂期は、誰もが言うように、「Xの悲劇」、「Yの悲劇」、「ギリシャ棺の秘密」、「エジプト十字架の秘密」という4つの傑作が、たて続けに刊行された1932年である。なんとあれらの名作群は、大恐慌のさなかに現れている。それも今、世界中の頭を抱えさせている難問の、一方の主役たるユダヤ人によってだ。
32年といえばエムパイア・ステート・ビルができた翌年で、不況ではあったが、ある意味でニューヨークの最もよい時代だった。アメリカ産の大型自動車は、みな獏のようにこんもりとした体型をして、男たちはうだるようなマンハッタンの夏も、スーツを着込み、帽子をかぶって歩いていた。そしてチャンドラーが批判したあの過剰にパズル的な難事件に、NYPDの警視だったクイーンの父親が挑んでいた。あれら人工的で、知的で、端正な事件群が、このドラッグと窃盗と、散文的な殺しのメッカで起こっていたとは、もはやそれ自体、過剰な装飾のビルとともに過ぎ去ったメルヘンである。
船長がマイクを持ち、ガイドをしてくれる。これを聞いていると、ロウワー・マンハッタンには、今は誰も住んでいない廃墟の高層ビルもあるという。こういう話を聞くと、やはり心がうずく。
終点、自由の女神前にさしかかると、逆光になっていて、彼女の顔はよく見えなかった。この像の中には、観光客はもう上がれないのだそうだ。アメリカは、セントラルパークの「クレオパトラの針」と同様、フランスからのこの巨大な女神の贈り物にも、それほど積極的ではなかった。面白いのは、フランスで組みたてられたこの女神のできがあまりによかったので、国外に出すなというデモがフランスで起こったことだ。それで国内向けには小型の女神像を建てた。これは「白鳥の遊歩道」という道の先端にあった。パリダカ参加などでよくパリに行っていた頃、たいてい日航ホテルに泊まったが、ホテルの窓からこの小型の女神が見降ろせた。この思い出は、確か「見えない女」という短編に書いた。ようやく本物を観た。
女神を前にして思ったことは、妙な感想だが、エルヴィス・プレスリーにちょっと似ているなということだった。彼がこの国を代表する歌手になった理由は、こんなところにもある気がした。
船はここで引き返す。陸に戻り、近いからグラウンドゼロにも行ってみた。金網に囲まれた、とてつもなく広い窪地だった。ここであれほどの悲劇が展開したとは、周囲の空気が落ちついている今は、信じがたい思いがする。救助で命を落とした300余名のファィアー・ファイターの名前が、パネルになって掲げられていた。そして金網の中には、錆びた鉄骨の十字架がぽつんと立っていた。残骸を片づけ終ったら、あの十字架が遺っていたのだそうだ。阪神大震災の時、ある教会のキリスト像だけは無傷で残っていた、という話を思い出す。
ニューヨークの建築史、華々しいビル高層化競争の、最終ページに911があったとは考えたくないものだ。エンパイアー・ステート・ビルにも、昔飛行機がぶつかったことがある。
成りあがり者の虚栄の産物という評価が定着しかけた頃、第2次世界大戦が始まり、高層ビルをますます古き佳き時代のモニュメントにした。そしてとどめの一撃とぱかりに1945年、一機の爆撃機がその代表格、エムパイア・ステート・ビルにぶつかった。乗員の3名と、ビル側は11名が死んだ。この時、誰もがこの大事件を、摩天楼と、その高さ競争の時代の終焉と考えた。
しかし、これは単なる通過点だった。戦後、ニューヨークに好景気も戻って、高層ビル競争は再燃した。エムパイア・ステート・ビルの収益は黒字に転じ、蛍光灯と冷暖房の普及は、密閉型のガラスのビルを大増殖させて、高層の空間をより安全な日常装置にした。そして1960年、ニューヨーク州とニュージャージー州の公安委員会の決断が、2本の貿易センタービルを74年に登場させることになる。しかしこのビルの最新構造は、飛行機の衝突には弱かった。貿易センタービルが、エンパイアー・ステートのような旧式の骨組構造を持っていたなら、あのテロには堪えられた。少なくとも、全面的な崩落にはならなかった。
2本の貿易センタービルは、エムバイア・ステート・ビルに替わって世界一の座についたが、同じ年、間髪を入れず、シカゴのシアーズ・タワーに抜かれた。不屈のアメリカ人は、ここを摩天楼の終着駅とすることなく、2006年の9月11日完成を目指し、高さ530メートル、ツインタワーをなんと120m、シアーズタワーをも50m凌ぐ、世界一のフリーダム・タワーの建造を決定した。傍らには、テロ犠牲者への追悼施設も建てられるという。
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