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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第173回
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8−17(日)、Urine Townのセントラルパーク
またセントラルパークに出かけた。観光に来たのではない。公園内のあちこちを、できれば正確に頭に入れたかったから、何度でも出かけ、同じ場所をぐるぐる歩く。
西側から適当に公園に入ったら、思いがけず「IMAGINE」のプレートの前に出た。これは今回、実は目指してはいなかった。観られたら観ようと思っていた程度なので、おおこれか、と思って、ちょっとびっくりした。ずいぶん醒めたビートルズ・ファンになってしまったものだ。昔なら、空港に飛来したらその足でここに直行したろう。
グレーの大理石で構成された感じのよいモザイクで、形状はちょうどマンホールの蓋のようで、地面に貼りついている。この大理石は、イタリア、ナポリから贈られた。小野洋子氏の寄贈だったはずで、1980年からここにあるということだから、ジョンの殺害後、すぐに造られたということか。このあたりは、ジョンが好んで歩き廻っていた場所らしい。
写真を撮っていたら、隣にいたちょっとスコテッシュふうの朴訥な女の子と目が合い、にっこり微笑んでくれたから、こちらも笑い返した。「私たち、同じビートルズ・ファンよね」、と言いたげなその様子に、なんだかいたく感動してしまった。そして、忘れていた感覚が甦った。ビートルズは、少なくともこの場所では、依然として世界言語だった。
これが20年ばかり前で、東京から直接ここに来たのだったら、この10倍は感激したろう。あの頃は、寝ても覚めてもビートルズだった。ぼくもそうだったが、弟はもっとだった。「イマジン」という映画で、イギリスのジョンの家のくさむらに、何日もじっと偲んでいる熱烈なファンが出てくるが、彼の気持ちがなかなかよく解った。あの映画を観たのは、ジョンが死んでもうかなりの時間が経っていた頃で、だからぼくの気分自体はけっこう平静だったのだが、今度は弟が死んでいて、あいつなら本当にこんなことをしたかもしれないなと思い、そっちの方で、気分が穏やかでなかった。
ちょっと手を合わせてからそこを通りすぎ、振り返ってみると、さっきの色白の女の子は、記念碑の横のコンクリートに腰を降ろし、少し横たわるふうな姿勢になっていた。若い娘だったが、熱烈なファンなのだろう。
セントラル・パークを東西に突っ切って、といってもそういう道が少ないのだが、東に向かった。東側に観たいものが多くあったのだ。
いつも模型のヨットが浮かぶコンサーヴェイトリィ・ウォーター、その近くに「不思議の国のアリス像」がある。アリスだけではなく、小人やうさぎたちとの群像になっていて、今日は像の前で、演劇青年たちの一団が寸劇をやっていた。裾が広がったスカートをはいた、アリスらしい女の子もいた。周囲にはけっこう人がいて、笑いながら劇に見入っていた。
この像は、リンコさんがくれた英文資料によれば、1959年に作られたものらしい。セントラルパークには無数のスタテューがあり、どれも同じ頃に作られたように見えるが、資料や、そばに置かれた説明板によれば、置かれた時代がまるで違う。最古のものと最新のものとでは、百年以上も時期が隔たっている。セントラルパークは、今も発展しつつあり、作られつつあるのだ。
ハンス・クリスチャン・アンデルセンの像。ここには毎週土曜の午後、子供のためのおとぎ話を聞かせてくれる人が来るという。この像は、1956年にここに置かれたらしい。
付近には、ザ・モールという遊歩道があって、ここにはさらにたくさんの銅像が散在している。地図にもガイドブックにもなかったが、このあたりは「Literary Walk」と呼ばれているらしい。日本にもよくある、「文学の小道」だ。
フィッツ・グリーン・ホーレックの像。これは19世紀のアメリカの詩人らしい。
セントラルパークの解説本によれば、アメリカ人も、もう今や彼の詩を思い出すことはまれだという。この像は1877年に建てられた。
サー・ウォルター・スコットの像。これは1872年製。ロバート・バーンズ、1880年製。ウィリアム・シェイクスピア像、これは1872年の建立。高名なアメリカ大陸の発見者、クリストファー・コロンブスの像もあって、これは1894年の作だった。みんな100年以上昔に建てられている。それぞれの像が建てられた年月日などは、こうして実際に来てみないと解らない。
シラーの像や、ベートーヴェンの像もあった。これらはこの地のドイツ系アメリカ人が、1859年頃に寄贈したものだという。面白いことを知ったが、セントラルパークの設計を担当したオルムステッドとヴォークスという2人の建築家は、この公園には銅像の類はいっさい置きたくなかったらしい。理由は解らないが、たぶん偶像崇拝は権力思考、ひいては差別や戦争にもつながると、そんなことを考えたのかもしれない。北朝鮮の状況を思えば、その危険性は確かに考慮すべきだ。しかし当時のニューヨーク市民の好みから、彼らの銅像禁止願望は、結局許されなかった。
メトロポリタン美術館の裏手、やや南寄りにはオベリスクが1本屹立する。これはエジプト政府の寄贈だ。1869年にスエズ運河が開通し、これへのアメリカの貢献に感謝して、アレキサンドリアに立っていた2本のオベリスクのうちの1本をアメリカに譲ると申し出た。しかしアメリカ政府は、どちらかというとありがた迷惑に思ったらしく、当初は乗り気ではなかった。しかし1本がロンドンに立てられたと聞き、あわててもらうことにした。
このオベリスクはなかなか数奇な歴史を持っていて、もともとはエジプトのファラオ、トトメス3世が作らせたものだらしい。最初はヘリオポリスに立っていたが、それを12世紀、ローマ皇帝アウグストスが、アレキサンドリアに運ばせた。
台座との間に青銅製のカニがはさまっている。これはヘリオポリスからアレキサンドリアに移す際、ローマ人が作って置いた。アレキサンドリアに運んだ理由が、これには書かれているそうだ。
現在はこれも、ロンドンに運ばれたもう1本も、「クレオパトラの針」というニックネームで呼ばれている。しかし、ヘリオポリスからアレキサンドリアに運ばれたのは、クレオパトラの死後20年も経ってからで、移動にはクレオパトラの意志は関わっていないらしい。
そういうオベリスクが、新大陸のこの地にやってきて立ったのは、1881年の1月のことだった。当時のマンハッタンには、摩天楼と呼べそうなビルはまだ1本も建ってはいなかった。マンハッタンの高層ビル第1号は、ワールド新聞社ビルか、その13年後のフラットアイアン・ビルになるだろうが、早い方の前者でも、1890年のことだ。今はもう、この石碑によく似た摩天楼群が、マンハッタン中を埋めている。
セントラルパークの歴史を包括的に俯瞰してみると、まず1873年にこの公園ができた。だから今年でちょうど150年となる。この工事中に、ドイツ系アメリカ人がシラーやベートーヴェンの像を寄贈した。できあがってから、シェイクスピアや、サー・ウォルター・スコットや、コロンブスの像も加えられた。
続いて1880年に、メトロポリタン美術館が公園内の今の位置に完成する。しかしその前身は、10年前から5番街にあった。マンハッタンに摩天楼群ができていくのはそれからずっと後だ。その以前にスエズ運河が開通し、その以前の1853年は第2回ニューヨーク万博、そのさらに前の51年には、第1回ロンドン万博が開かれている。
この日、ぼくは「ブラックアウトから生還」のTシャツを着ていたのだが、そうしたら、やたらに声をかけられた。必死でものを考えながら歩いていると、すれちがいざま肩をつつく者がいる。顔を挙げたら、非常にインテリそうな黒人の青年が、笑いながらこっちを見ていて、「それ、どこで買ったんだい?」と訊く。「タイムズスクエアだよ」と答えた。
ああ疲れたと公園のベンチにすわっていたら、白人の娘たちがおずおずと目の前に立って、「エクスキューズミー、そのTシャツ、どこで買いました?」と問う。「タイムズス・クエアのヴェンディング・ショップですよ」と言った。大変な注目度で、おちおち休んでいられない。気分をダン・アクロイドにしていなくてはならず、着て出たことを後悔した。アイスクリームを買っても、コークを買っても何か言われる。中には「作ったの?」と問う人もいて、びっくり仰天した。冗談ではない、こっちは旅行者で、そんな短時間に着るものまでは作れない。
しかしニューヨーカーは人懐っこく、悪い気分ではなかった。人情ののんびりしたLAと較べ、ニューヨーカーは東京みたいに人情厳しく、時に意地悪だと聞いていたが、格別そんな印象はなかった。
LAとの違いで意外に思ったことは、黒人が多いということだ。LAでは黒人は1割程度だが、ニューヨークは、マンハッタン島はというべきかもしれないが、3分の1は黒人という印象だ。ここでなら、確かにジャズも育ったろうと思う。
これは、1917年にアメリカが参戦した第1次世界大戦によって男性労働力が大きく不足したため、南部の黒人にマンハッタン移住を奨励したためだ。市はマンハッタンの北に居住施設を作っておき、やってきた黒人労働者はどんどんそこに入れた。現在のハーレムは、そのようしてできあがった。
だから天下のマンハッタンに来たというより、パリダカで何度か行ったアフリカに戻ったようで、懐かしかった。地下鉄のホームで黒人のおばちゃんが声高に話し合っている様子などを見ると、ダカールの市場にでも来たようだ。そしてダカールの建物や乗り物が、たいてい黒ずんで汚れているように、ここマンハッタンの地下鉄も落書きだらけで汚れている。ハーレムに近いあたりの建物は古び、黒ずみ、やはり汚れている。カリフォルニアでは、そういう様子は割合少ない。
マンハッタンの地下鉄は、1904年に第1号が走った。当時は世界最先端の乗り物だったが、それゆえ21世紀の今は世界1、2に遅れている。まるでスキーのリフトのように時刻表がなく、出たとこ勝負で待たなくてはならない。中で倒れる乗客が出れば、救急車が来るまで何時間でも待つという。
深度も浅く、コンクリート板1枚上が地上である。うっかり乗り過ごし、反対側のホームに行こうと思ったなら、地上に出て、横断歩道を渡らなくてはならない。地下の明りは、道路に空けた穴にかぶせた鉄格子から採っていたりする。道路のアスファルトを支えているのは未だに工事現場のような鉄骨で、そのアンティークな気配はぼくなどには悪くないが、東京から来た者には遅れて感じられるだろう。
何より、暗いのが女性たちには不安のもとだろう。地下の穴倉なんだからこんなものという、初期の思いがまだ生きている。ホームも狭く、少々危険に思える。おまけに車内にはあるのだが、地下構内には冷房がなく、地下のホームはうだるような暑さで、しかもあちこちで小便の匂いが鼻を突く。気づけば、どの地下駅にもトイレが全然ない。あっても鍵がかかっている。トイレを置けば、ホームレスが入って眠り、さらには麻薬売買など、犯罪の温床になるからだろう。これもまた、女性には不安事に違いない。
地上に出ると、おびただしい「Urine Town」の文字が道を走り廻っている。タクシーの屋根に載っているのだが、ミュージカルか何かの広告らしい。訳せば、これは「おしっこタウン」の意である。これが、実はマンハッタンの別名だ。
おしっこはともかく、暗いのは犯罪のもとだから、これは明るくした方がよい。落書きだらけの地下鉄車両も、消す方がよいと思う。以前、市が大予算をかけてこの落書きを徹底的に消したら、犯罪の件数もぐんと減ったと聞く。これが「割れ窓の論理」というものである。道に止めた車や、建物の窓ガラスを割っておくと、その周辺の犯罪率はみるみるあがる。悪いのは自分だけではない、不当行為をなしても、他にまぎれられるという心理が人間には働くからだ。車内、地下構内を明るくすれば、落書きはやりにくくなる。落書きがなくなれば犯罪は減る。それが良循環というものである。
とはいえ、ぼくなどには、この汚れた感じも悪くない。長く暮らしていれば犯罪の危険があるのだろうが、ひと夏のちょっとした訪問者には、「Urine Town」の人情は、悪いものではなかった。
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