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島田荘司のデジカメ日記
第171回
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8−15(金)、建築巡礼。
部屋の明りのスウィッチを入れておいたら、朝の6時半にぱっと明りがついた。電気が戻ってきたのだ。しかし、すぐ起きてもしかたがないから、またしばらく眠った。
起きだしてテレビをつけてみたら、ニュースをやっていた。五大湖の付近で、電気が逆方向のサークルに回ったのが停電の原因だというようなことを言っていたが、この時は意味が解らなかった。ブラック・アウトの瞬間、ニューヨークのファイアーファイターには、80000件の救助依頼が爆発的に殺到。そのうちの800件はエレヴェーター関連だった、というようなことを言っていた。しかしファイアーファイターは不眠不休の活動をして、その大半を救助したという。この街のファイアーファイターは、江戸の頃の火消しがそうだったように、今花形だ。
この日は、マンハッタン島の好きな高層建築を見て廻ろうと思っていた。しかし、まだ地下鉄は止まっているらしいから、行動はかなり制限されそうだった。
ニューヨークの高層ビルの歴史について、代表的な建築物を中心にして、以下で少し語ってみようと思う。

摩天楼文化はアメリカで生まれ育った独自のものであり、資本主義の勝利と、アメリカの楽観主義の象徴なのだが、その初期においては、アメリカの建築家は欧州の模倣に終始し、独自の方法を発見できずにいた。
1811年の作品であるニューヨーク市庁舎。今もニューヨーク観光の名所になっているが、これはフランスふうのルネッサンス様式を踏襲している。
1842年の作品で、旧税関であり、現在はフェデラルホール・ナショナル・メモリアル(国立記念館)。これは初代大統領ジョージ・ワシントンが大統領就任の宣誓をした場所に建っているのだが、これはグリーク・リヴァイヴァル、つまりギリシア様式を真似た、復古的な建築スタイルである。
1846年建造、ウォール街にあるトリニティ教会。これはゴシック・リヴァイヴァル、つまり中世ヨーロッパの建築様式を復活踏襲した伝統的なもの。85mの尖塔は、築後10数年間はニューヨーク一の高さを誇っていた。しかし今は、神に近づくこの高い尖塔も、背の高いビルの足下に埋もれてしまい、人は信仰心よりも経済的な意欲の方が高みに達すると言わんばかりの、妙に皮肉な光景を現出している。
1853年、第2回世界万博がマンハッタンで開かれたが、この時に作られた「ニューヨーク・リクスタル・パレス」は、前年の第1回ロンドン万博で展示会場になった「クリスタル・パレス」の模倣だった。
このように、19世紀初頭からなかばにかけてのニューヨークは、さまざまな建築様式が実験模索され、統一感なく林立した時代だった。こういう時代を終え、マンハッタンの高層ビルの歴史は、19世紀のなかばから、徐々に始まっていく。

1853年、ラッティング・タワー。これはニューヨーク万博のために建てられたもの。これをマンハッタンの高層建築第1号とする考え方もある。しかしこれは単なる物見塔であって、住施設としての機能はない。高層ビルを、内部に住環境の機能が備わったものと定義するなら、この塔は違う。
しかしこの塔には、のちの高層ビルにとって、非常に重大な意味があった。この万博において、イライシャ・グレイブス・オーティスという人物の発明した蒸気エレヴェーターが公開されたが、これがラッティング・タワーにとり付けられていたからである。見物人はこの発明によって、塔の展望台に楽に登ることができた。このテクノロジーによって、高層建築の条件はひとつ完成した。
1857年、オーティスの蒸気エレヴェーター第1号が、ニューヨークのビルに設置される。
さらにこの頃、錬鉄を用いた骨組み構造が開発されることで、ビル建設の高層化が始動する。それまでのビルは単に石積みであったため、低部の壁は3mもの厚さになった。
1883年、20年以上の建造期間を経てブルックリン橋が完成し、マンハッタン島と周囲の陸地とがはじめて結ばれる。これも高層建築だが、住施設ではない。
1884年、ホームインスランス・ビルがシカゴに完成。これが高層建築物の第1号とされる。10階建てで、当時高層とされていた5階建てビルの、倍の高さがあった。
1888年、エジソンによる白熱電球が市販される。そして続く1890年代、電気が一般社会に普及して、これがエレヴェーターの動力ともなっていったから、高層建築普及の条件が、ここでまたひとつ整う。それまでは、できるだけ外光を多く採り入れるため、ビル窓部は必ず大きく開口し、オフィスは各階窓側に造る必要があった。歯医者の窓は、高さが3メートルもあったといわれる。
やがて鋼鉄鋳造の技術が開発され、これが以前よりあった骨組み構造と結びつくことによって、高層ビル建設の条件がすべて整う。
1890年、ピューリッツァー経営、ワールド新聞社のワールド・ビル。18階建て、高さ94m。ニューヨークにできたこれが、2年間世界一のビルであった。
1892年、シカゴの22階建ての寺院、メイソニック・テンプルがワールド・ビルを抜き、世界一となる。
しかしこの直後、シカゴ市当局は、高層化による土地の価格下落で不動産産業からクレームを受け、ビルに高さ制限を設けるので、シカゴのすべてのビルは40m以下となり、11階建て以上のビルはシカゴから姿を消す。よって以降90年間、摩天楼の高さ競争は、ニューヨークの独壇場となる。マンハッタンは、周囲を水に囲まれた狭い島であったこと、また地盤が安定した岩盤であったことが、建物を空に向かわせる結果になった。

第1次高層化の時代。
1903年、フラット・アイアンビル。鋼鉄の骨組みによる22階建て、90m。以降の5年間、これが世界一ののっぽビルとなる。マジソン・スクエアに面した、槍のような三角形の敷地に立ち、鉄板のように平らで特徴的な姿をしていたためにこの名がつき、完成当時は大いに話題になり、今でもランドマークとしての地位を保っている。
1908年、シンガータワー。41階建て、186m。フラット・アイアンビルの一挙に倍の高さに達し、世界一のビルとなる。しかしこの栄光は、わずかに1年間だけだった。
1909年、メトロポリタン・ライフタワー。ヴェニス、サンマルコ広場に面して立つ有名な塔を模したもの。50階建てで、シンガータワーを26m抜き、世界一となる。
1913年、ウールワースビル。241m。ウールワース雑貨屋チェーンの本社ビルで、建築家キャス・ギルバートと、店の宣伝効果を期待するオーナーのフランク・ウールワースの要請から、荘厳な教会ふうゴシック様式の採用となる。メトロポリタン・ライフタワーを28m上回り、外観でも高さでも、その後16年間の長きにわたって世界一のビルであり続けた。4月24日夜の開館式には、時のウィルソン大統領がホワイトハウスで点灯のボタンを押し、いっせいにビル全体の明りをともした。テラコッタ製の凝った外観と圧倒的な高さから、やがて「商業の殿堂」とも呼ばれるようになる。
1913年、イクイタブル生命保険ビルが、50m×90mの敷地いっぱいの36階、165mの高さのビルを建て、高さはそれほどではなかったものの、巨大な壁のような形状によって大きな日陰を作ったので、これが市民の危機感を生み、高層ビルの乱造は都市の息の根を止めるとして、「ゾーニング法」を誘導することになる。
1916年、世界初の高層建築規制法案、「ゾーニング法」が発布される。面した通りの中央から、一定の角度で立ちあがる斜線より外側に出てはならないと定めた規制。これがニューヨークのビルの、独特のセットバック・デザインを生んだ。しかし敷地の1/4部分に関してのみは、事実上高さ無制限だった。

第2次高層化、アールテコ様式
1925年のパリ万博で紹介されたアールデコ・デザインが、アメリカの建築家の圧倒的な共感を呼び、以降ニューヨークではアールデコの意匠が大ブームとなる。20年代末から30年代初頭にかけ、マンハッタンにおびただしいアールデコ建築が造られる。
1929年、336セントラルパーク・ウェスト・アパート。しかしそうしたアールデコの氾濫の中にあっても、1部には別発想の軸も存在しており、この高層アパートは頭頂部の外壁にエジプトふうの装飾を持っている。このビルは、映画「ゴースト・バスターズ」の舞台として使われた。
1929年、旧マンハッタン銀行ビル。現在は、ウォール街40番地ビルと呼ばれる。71階建て、282mの高さを持つこれが、ついにウールワース・ビルを16年ぶりに抜いて、世界一となる。ウールワース・ビルを上廻るビルが出現することは、時間の問題であった。ところがこのビルの世界一の座も、わずか1年間しか続かなかった。共同設計者のウィリアム・ヴァン・アレンとセデランスは、建設中に仲たがいし、ウィリアム・ヴァン・アレンは近所のクライスラー・ビルの設計に参加する。
1930年、クライスラー・ビル。ウィリアム・ヴァン・アレン設計。当初77階建て、282mの予定であったが、マンハッタン銀行ビルより60cm低くなったので、セデランスのビルにライヴァル心を燃やすアレンは、建物内でひそかに尖塔を組み立てておき、マンハッタン銀行ビルが頭頂部に旗竿を取りつけ終るのを見てから、これを頂上にボルトでとめた。全高はこれで319mとなり、マンハッタン銀行のみならず、エッフェル塔をも抜き去って世界一となる。頂上部分の外壁に、自動車の材料から作ったステンレス製の装飾板が貼られ、それがこのビルに独特の存在感を与えている。超高層アールデコ建築の代表格。しかしこの栄光もまた、わずかに1年間だけのことだった。
1931年、エムパイア・ステート・ビル。シュリーヴ・ラム&ハーモンの設計。当初は320mの予定だったが、クライスラー・ビルが尖塔によって足下60cmに迫ったので、このビルもまた頂部に展望台を付け足して85階建てとし、さらには高さ60mの飛行船係留塔を頂上に載せ、全高を381mとすることによって、勝利を確定的にした。このビルは、ワールド・トレード・センターができるまでの40数年間、世界一の高層ビルとしてマンハッタンに君臨した。超高層アールデコ建築の頂点。

モダン建築
1921年、建築家、ミース・ファン・デル・ローエが、ビル全面をガラスで被う摩天楼を計画する。この時点では提案のみで、実際には造られていない。
1922年、ル・コルビュジエによる「300万人のための現代都市」プランが、ニューヨーク市に対して示される。建築を単体で考えるのでなく、緑地と高層建築を計画的に配置する都市計画の提案で、これはアメリカ流の自己顕示に走らず、ヨーロッパ流の匿名的な建築スタイルを提唱するものともなった。これはミースの、ガラスと鋼鉄によるシンプルで無機質なデザインと相性がよかったといえる。
1952年、国際連合本部ビル。こういった時代を反映した、ウォーレス・K・ハリソンの設計チームによるシンプルな箱型の作品。
1958年、シーグラム・ビル。ミース・ファン・デル・ローエとフィリップ・ジョンソンの設計。金属とガラスによる無機質で直線的な構築物が、いよいよマンハッタンに出現する。装飾を徹底して排し、匿名性が高いながらもそのシンプルな美しさは未来的であり、衝撃だった。セットバックを行わないことによって生じたビル前面の空き地は、プラザ(都市広場)となって、市民に供されていた。以降、ミースの言葉、「Less is more(より少ない表現が、より多くを語る)」、「神は細部に宿り給う」などとともに、このビルはニューヨークのビル建設フィールドに、一大革命をもたらすことになる。
1961年、ニューヨークは「ゾーニング法」の形態規制を撤廃、ビル前面のプラザを奨励する。これが、よりオアシス性を組み込んだポケットパークや、アトリウム(自然光を採り入れた室内大空間)に発展する。
ミース以降の1950年代末から60年代にかけ、鋼鉄とガラスによるシンプルな高層建築がアールデコを駆逐し、マンハッタンに爆発的に増殖する。しかし、ミースの作品自体は先駆的で美しいものだったが、この方法論はパターン化されると設計施工が比較的容易であリ、量産によって材料費、建造費も安くなっていったために、追随者の作品には安易で退屈なものも混じりはじめる。またシーグラム・ビルの達成を越える後続作品は、なかなか現れなくなった。
1963年、旧パンナムビル。現メトロポリタン生命保険ビル。そういった現状への反省から、シーグラム・ビルの持っていたコードを1部壊し、再び創作の独自性を回復しようとするポスト・モダンの動きが起こってくる。この発想の開拓者のひとつが、旧パンナムビルである。

第3次高層化、ポスト・モダニズム建築
1973年、ワールド・トレード・センター。110階建て、410mのツインタワー。ミノル・ヤマサキ設計。このビルは、従来型の骨組み構造を捨て、外壁部にビルの全過重を分散してかける、革新的な構造を持っていた。完成時、世界一となる。
1974年、シアーズ・タワー、シカゴ。SOM設計、479m。9本の直方体を束ねた独特の形態のビル。高さ規制を撤廃したシカゴが、このビルによって、間髪を入れず、ニューヨークから高層ビル世界一の座を奪った。
1977年、シティコープ・センター。ヒュー・スタビンズ設計。このビルを設計したのち、彼は横浜のランドマーク・タワーの基本設計に関わることになる。シティ・バンクの親会社、シティ・コープの本社ビル。屋上部の斜面スロープが特徴で、完成当時は、ニューヨークで3番目に高いビルだった。
1982年、IBMビル。アトリウムには竹林のランドスケープがある。
2006年、9月11日、ワールド・トレード・センターの跡地に、フリーダム・タワー、530mが完成予定。これによってニューヨークは、また高層ビル世界一の座をシカゴから取り戻す。

表通りに出てみるとよい天気で、この日、バスは無料の乗り放題になっていた。地下鉄が止まっているからだ。停電の起こった昨日と今日の2日間、こんなふうに、マンハッタンのすべてのバスは無料だった。東京ならこの種の思いきりは、責任発生を恐れてなかなかできないであろう。この日、一種の解放区が生まれたようで、みながマンハッタンをわが街と心得ている気配がよく伝わってきた。それは市当局の、こういう英断や思いやりを反映したものに思われて、なかなか感動的だった。
42ストリートに出て、グランド・セントラル・ターミナルに入ってみた。天井の高い、石造りの荘重なデザインの駅舎だが、エントランスには人っ子一人いない。階段をくだったところにある、天井に星座の描かれた広いロビーには、列車が動くのを待ってじっと床にすわる、大勢の人たちの姿があった。
駅のすぐ裏手がクライスラー・ビルになっている。頭頂部の三角形のステンレス板が陽光を反射しているのが遠くから見えた時は感動した。しかしいざ接近してみると、セットバックのせいで、どれがクライスラー・ビルだか解らなくなった。往来から見上げると、セットバックした1段目までしか見えないからだ。セットバックには、こうした難点もあるものと知った。
クライスラー・ビルは、入口のドアや、その周囲のアールデコの意匠が素晴らしかった。しかし停電のせいでドアは閉まっている。石の壁に金属板が填まり、ビルの成り立ちや、アールデコ建築の代表例であることなどを伝えている。これを見てから、エムパイア・ステート・ビルに向かった。両者間は、歩いていけるくらいの位置関係だ。
エムバイア・ステート・ビルも、事情はよく似ていた。陽を浴びる高くて細い側面が見えた時には感動したが、下までたどり着けば、セットバックの壁面のせいで、ごく平凡なビルにしか見えない。しかももう古びていて、日本のデパートが持つような華やかさはない。加えてこの日、工事をしていて、1階の周囲には1部足場が組まれていた。
入口にはビルのスタッフが何人か立ち、停電の後で何が起こるか解らない、だから今日は展望台には上がれない、と説明していた。明日にはたぶんオープンできるだろうとも語っていた。
ヘラルド・スクエアに出て、しばらく椅子で休んだ。NYPDが、箱型の、独特の小型車で走り廻っているのが見えた。斜めに走るブロードウェイの彼方には、フラットアイアンらしい特徴的なビルが見えたので、そこまでまた歩いていくことにした。
手前のマジソン・スクエアからは、メトロポリタン・ライフタワーも見えた。フラットアイアン・ビルとはよく言ったもので、目の前にするとこれは、まったくそんな感じだった。横からぐいと押せばぱたんと倒れそうに見える。しかしこのビルは、今年でちょうど百年、まだこうして現役でいるのは、内部に組まれた鋼鉄フレームの効能なのであろう。旧式の錬鉄フレームの構造では、とてもこんな薄いビルは発想できなかった。
フラットアイアン・ビルの前で車道を渡り、西に向かって歩いてみた。20階建てくらいの古い石積みのビルが、次々に目の前に現れてくる。クライスラー・ビルなど、代表的な高層ビルを観たのちのこの時考えていたことは、時代を作ったスカイスクレーパー群よりも、むしろ20〜30階建ての中堅のアンティークなビル、そのアールデコ意匠とか、グリーク・リヴァイヴァルの意匠に、非常な存在感と懐かしさを覚えるということだった。
日本の事情で言えば、近頃ようやくできはじめた高層ビルに、懐かしさを感じるというのも奇妙なことだが、それこそが先進都市ニューヨークの醍醐味というものであろう。エムパイア・ステート・ビルには、期待したほどの感動がなかった。ガラス張りのモダン・ビルも、たいていのものは東京的であり、少しばかりありふれて感じられる。一方20〜30階建ての古い石造りのビルは、セットバックがないせいもあり、目の前にすれば巨大な壁面の全体が、視界いっぱいに立ちふさがって圧倒される。その遥かな頂上に、小さなパルテノン神殿が載っているのを見ると、何故かたまらない感動を覚え、デジャヴュに襲われそうになる。これほどに進んだものが、もうこんなに古び、汚れているのだ。これこそは、ニューヨークにしかない。こういうビルを、子供であったはずのぼくは、いったいどこで視覚記憶としたのであろう。
時間がなかったので、好きな高層建築を洗いざらい観るというようなことはとてもできなかった。しかしマンハッタンの建築群は、実に多くの思考をぼくにもたらした。20年代から30年代にかけてのアールデコ・ビル群、その後の鋼鉄とガラスのモダン・ビル群、そしてその反省から現れたポストモダンのビル群、こういう経過が、日本の古典的な本格ミステリー、革命であったコード発想の新本格、そしてその後に来るべき新たなミステリー創作群の、直接的な比喩であることに気づいて、愕然とした。
鋼鉄とガラスのビルは、最初のミースの発想は文句なく革新的で素晴らしいものだったが、コード化されれば設計施工が以前のものより容易となった部分もあり、手間暇のかかる石造りのビル群の息の根をみるみる止めて、マンハッタンを水牛の群のように埋めていった。その結果、自己主張を持つ貴族的なアールデコ・ビルと、平等主義的なガラスのモダンビルとがあちこちで隣り合うようになっており、この無秩序の並列景観は、無意味であるばかりか、痛々しさを醸している。貴族仲間と競って屹立すべき宝石のようなゴシック尖塔の背後に、それよりもずっと簡単な作為で、しかも遥かに高くそびえる無機質の衝立は、尖塔を飾る技巧のひたむきな努力を無意味とし、なにやら思慮の浅い営為と冷笑しているようにさえ見える。こういった無配慮は、世界中でマンハッタンだけが持つ類い稀なアート景観の、最良の部分を壊していると感じた。
むろんそれは、石積みのアールデコ・ビルに強いノスタルジーを感じる者の片寄った感想ではあろうが、モダン建造物群は、かつてル・コルビュジエが述べていたように、もっと計画的に、区域を分けて配するというような(彼は直接そうは言っていないが)配慮が必要ではなかったか。ゾーニング法以上に、この街にはそういう発想が必要だったように思える。方法論の圧倒的に異なる高層ビル同士、いくらでも隣り合って建てさせた若干の無神経は、この貴重な都市をアートとすることに失敗している。
ミースの切り拓いた方法は、時代がここまで進んだ今、シーグラム・ビル建造の時のような時代との対決姿勢を維持し、たとえば貿易センタービルくらいまでの思いきりを、常に持っていて欲しいものと感じる。シンプルならそうあるべきだ。
これは、コード型の本格に対して抱く感想とも似ている。コード型の洗礼を受けた簡易ミステリーの作品が増えすぎると、新たな才能がよそに行くのではとか、一般小説の読者にとって、本格のフィールドが以前のような貴族的な感動を失い、スリルのない景観に見えているのではないか、とそんなような心配をした。
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