島田荘司 on line
on line top Weekly Shimada Soji top
編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第170回
島田荘司のデジカメ日記
島田荘司のデジカメ日記
島田荘司のデジカメ日記
島田荘司のデジカメ日記
島田荘司のデジカメ日記
島田荘司のデジカメ日記
8−14(木)、ニューヨーク、ブラックアウト。
2003年8月14日の午後、ぼくはニューヨークのセントラルパークにいた。次の作品「ライオン大通り」を、東京創元社の新雑誌、「ミステリーズ!」に連載しようと思っているのだか、そめために、ニューヨークの有名な公園「セントラルパーク」の細部までを、正確に知りたくなった。
この物語の構想はずいぶん昔からあり、そのために、マンハッタン在住の竹内リンコさんにセントラルパークの書物と地図を送ってもらったのだが、日夜これを眺めているだけでは、どうしても細部の実感まではできない。たとえばアリスのワンダーランド像といっても、どのくらいの大きさで、どんな色艶をしているのか解らないし、これとモールという遊歩道との位置関係とか、ガプストゥ・ブリッジという、よく絵葉書などに現れる橋との間は歩いてどのくらいか、なんてことは地図では解らない。ちょうど仕事も一段落したところだったので、面倒だ、ちょっと行って歩いてこようと思って飛行機に乗った。
ニューヨークははじめてではない。しかし以前来た時は時間がなかったから、ほとんどどこも観られていない。セントラルパークには1歩も足を踏み入れなかった。ニューヨーク、特にマンハッタンには猛烈に興味がある。少し古めの、アールデコの高層ビルは以前から大好きだ。今はこれらを調べているので割合知識がある。そこで以下で、これらについて少し語ってみようかと思う。
マンハッタンは完全な島で、巨大な岩盤だとよく言われる。そこで地盤の安定したここに、高層ビル文化が発祥した。しかしこの定説は、あまり正確ではない。まずリンコさんによれば、岩盤といえどもけっこう地震があるそうだし、高層ビルを、中に人が住み暮らせる設備を持つものと定義するなら、この発祥の地はシカゴというべきであろう。
ニューヨークとシカゴは、ビル建設の高さ競争を長く続け、高層化で地価のさがった不動産産業のクレームを受けてシカゴが高さ制限を設けたから、一時期はニューヨークの独壇場ともなったが、現在はまたシカゴが追い越していて、貿易センタービルのない今(あった時点でもだが)、世界一の高層ビルはシカゴにある。しかしニューヨークは、またこれを奪い返す計画を持っている。ともあれ、マンハッタンが島で、居住空間が空に伸びるほかはないからここが高層ビルの集合地になったという把握は正しい。
マンハッタン島を白人が手に入れたいきさつには諸説があってなかなか面白い。あまり信頼できる話ではないものの、最も面白い話は、1626年にベーテル・ミニュイというオランダ人が、あるインディアンからマンハッタン島を26ドルで買い取ったというものだ。マンハッタンとはインディアンの言葉で、「丘の島」という意味である。タダ同然で、これはもう詐欺というべきだが、このインディアンもまたマンハッタン島の住人ではなく、正式の所有者でなかったらしい。詐欺はお互い様であった。
こんないい加減な発端で始まったオランダ人の入植だが、マンハッタン島の南端は以来ニューアムステルダムと呼ばれ、開発が進んだ。これをイギリスが海軍力にものを言わせて強引に脅し取り、さらに独立戦争が起こってこの島はゲリラ線の舞台になるなどしたが、最終的にはアメリカ人のものとなる。「ニューヨーク」の地名は、オランダからイギリスがここを奪い去った1664年、イギリスの国王チャールズ2世が、この土地を弟のヨーク公に与えたことに由来している。ここまで来れば、もう史実である。
以来マンハッタンにはイギリス人の入植が進むが、街としての体裁を成していたのは南端、今のロウワー・マンハッタンのあたりばかりで、中央から北に向けては長く荒地だった。1811年になって都市計画が発想され、島全体にグリッド(格子)状の直線道路が引かれる。しかし南端だけはもう街ができ、まがりなりにも道路が敷かれていたから、ここだけは格子状の区画整理からはずれた。そしてこの都市計画の以前から、広い道路が1本だけ島の中央を斜めに走っており、これも潰そうと行政側は考えたのだが、沿道にすでに多くの建物ができていたために残ることになった。これが現在の「ブロードウェイ」である。
全体を徹底して格子状にしたのは、道が直角に交差していると、建物が建てやすく、ゆえに地価が比較的安価のままで安定するからだった。マンハッタンは京都の巨大版で、座標軸状を成しているから、ある建物の位置を示すのも楽だし、また探しやすい。
南北方向に走る道路は12本あり、これは末尾にアヴェニューを付けて呼ぶ。有名な5番街とか、パーク・アヴェニューなどはこっちの南北方向にあたる。日本語ではこれは「街」を付けて訳す決まりらしい。
東西方向には155本の道があり、これはストリートを末尾につけて呼ぶ。日本語ではこっちは、「丁目」を付けて訳す決まりらしい。
この都市計画の時点で、当時の地図を見れば23丁目あたり、東西方向では中央部に、大きな空き地が計画されている。しかしこれは公園ではなく、軍事用の広場だった。実際には、これは作られなかったようだ。この時期は、市民の憩いの公園というような発想は、ニューヨーカーにもなかったらしい。
この都市計画から40年ほどの時間が経った1850年頃、詩人でもあったウィリアム・カレン・ブラントという記者が、市民公園の構想を記事にして新聞に書いた。これが徐々に多くの人たちの共感を呼び、世界初の大型都市公園は建設されることが決定されて、デザインが一般公募された。このコンペに優勝したのはフレデリック・ロゥ・オルムステッドと、カルバート・ヴォーという2人の建築家コンビだった。彼らの計画では、公園は東西800メートル、南北は59丁目から110丁目にまで渡る縦長の長方形。南北の距離は6キロメートルで、面積は843エーカーに及ぶという広大なものだった。
公園の建設は1852年に始まったが、当時このあたりは、道路だけは引かれた荒れたゴミ捨て場にすぎず、勝手に住みついた低所得者層のバラックがあちこちに建っていた。これらを買収し、400万ドルの費用と、1857年から73年という16年の時間をかけて、人工の巨大な自然が造られた。3.8立方キロメートルの土が運び込まれ、述べ97キロメートルの小道が造られ、20キロメートル以上の水道管、100キロメートル以上の下水管が、公園のために新たに造られた。
やってきて歩いてみると、これが人工的に造られた自然とは信じがたい雄大なものだ。鬱蒼とした木々、広い水面が散在して、どちらかというと荒々しい様子もあり、盆栽的なものを想像すると、だいぶ様子が違う。造られてからもう140年が経過しているのだから当然ともいえる。きっかけは人間が作ったが、そのあとの長い長い時間を、自然の営みに委ねてきたのだ。
南から入ってすぐの場所に、アンパイア・ロックと呼ばれる灰色の岩山が見える。ここは公園だから岩山は残されたが、マンハッタンは、あちこちにこうした片岩が覗く土地柄で、これを破砕しながら開発は進んだらしい。しかし考えてみると、奇妙なことにも気づく。セントラルパークは、完成時点でもまだ1873年、ダイナマイトの発明は1888年だから、この工事にダイナマイトは使われていない。そうなると、黒色火薬をつき固めながら用いた、ずいぶんと危険な工事だったと思われる。
アンパイア・ロックばかりでなく、セントラルパークにはいたるところに灰色の岩が顔を覗かせているが、これの表面には常に無数の線状の傷がついている。それはマンハッタン島を含むこのあたり一帯は、昔氷河に被われていて、この氷河がじりじりと海に向かって前進していたために、岩の表面には例外なく線状の擦過痕が付いているのだという。
ニューヨークについて考え、面白いと感じることのひとつはこういったことだ。ここは間違いなく世界一の近代都市、それも歴史上最も早く作られたそれだが、この開発建造期、近代都市の前提となる科学の、かなりの部分がまだ存在しない。たとえばエレヴェーター付きのビル第1号は何年かというと、エリシア・オーティスのエレヴェーター会社が、1857年建造のニューヨークのビルにもう第1号を据えつけている。ニューヨーク万博でのオーティスのこの発明により、高層ビル建設は可能となった。
日に何回も、高層階の部屋から地上まで階段を上下したい者はないから、エレヴェーターがなければ高層ビルは存在しない。ところがこの時代、日本ではまだ江戸時代である。太平洋の彼方ではちょんまげに刀を差していた頃、エレヴェーターはもう登場した。
が、考えてみればエジソンによる電灯の発明は1879年、電気が一般に普及するのは1890年代である。エレヴェーターはあっても、それを動かす電気がまだない。エレヴェーター第1号機のビルにおいて、その動力はどうしていたのか。また室内の電灯はどうなっていたのだろう。
答えは蒸気機関だった。ビル内の各部屋にはむろん電灯はなく、ランプで、したがって特に歯科医など、患者の口の中を見るために、高さ3mもの巨大な明かり採りの窓を必要とした。これは歯医者がたくさん入って、窓がすべて大きなリライアンス・ビルというものが、今も残っていると聞く。
ビルのオフィスは、すべて窓側以外には作ることができず、大型のオフィスは、たいてい列車のように横長だった。当時の高層ビルディングは、そういうことだから決して効率がいいものとばかりはいえず、日本人にとって、高層の建物とはエレヴェーターや電気とワンセットのものなので、こういう事実は非常に奇妙に感じられる。

公園内にはイースト・ドライヴとウェスト・ドライヴ、2つの南北道があり、南から公園に入れば、このどちらかを歩いて北上することになる。この時ぼくは東側の道をとった。イースト・サイドは5番街通りに接している。木々の上から、イースト・サイドの高層アパートの上部が覗く。公園ができた頃はこのあたりはまだ民家もまばらだったが、今やこの広大な長方形を残して島全体を高層住居が埋めるようになっている。マンハッタンに暮らす者は、まず間違いなくアパート住まいだから、この公園はみなの共同の庭でもある。もしこの公園がなかったら、ビルで埋まったこの島はさぞ味気なく、息苦しかったことだろうし、また逆に、高層化を徹底して推し進めたからこそ、地上にこれだけの緑地を残せたともいえる。ブライアントの提案には、まことに先見の明があった。
客の顔に、芸術的に凝ったメイクを施して料金を取っているアーチストがいた。子供の顔が薄いお面をかぶったような格好にしあがって、実に見事だった。しかしこれは、清潔日本人には、なかなか受け入れられないアートだろう。
メトロポリタン美術館前の池は、停電のためか噴水が止まっていたが、犬が飛び込んで泳いでいた。ぼくがカメラをかまえると、飼い主がもう1度飛び込ませてくれた。
動物園をすぎ、モールのあたりを歩いていると、みな集まって、何事かがやがやと話している光景が目立ちはじめた。午後の5時前といった頃合いだった。ラジカセを持ってベンチにすわった老人の周囲に大勢が集まり、みなで彼の説明にじっと聞きいっている。老人は、どうやら停電が起こっているとみなに言っているらしい。
しかしまだ明るい時間帯で、この時はまるでピンとこなかった。停電といってもどうせすぐに回復するのだろうと日本流に考えて、ぼくは公園をずんずん北上していった。そうすると、歩いている女性たちが、セルラーフォンで話す声が聞こえる。
「えっ、エレヴェーターに乗っていてスタックしたの? 大変だったわね」とか、「電車に乗っていたの? まあ大変」などと言いながらすれ違っていく。そうなら、電気が停まっているホテルに今すぐ帰ってもしかたあるまいとのどかに考え、ぼくは日没時まで公園をうろうろ歩き廻った。ただ、停電の影響で男子用トイレがすべて閉鎖されてしまったのには閉口した。男性はみな、黙々と女性用のトイレに入っていくが、どうもそういう気にはなれない。
公園の西、かなり北の安ホテルにいたので、歩いて帰ることもできたのだが、公園を東西に横切るのはかなり解りにくい。知らないうちに北か南に向かってしまうのだ。東西方向にはまっすぐな道は少ない。また日が落ちてのち、暗い公園を歩くのは気味が悪い。そこで5番街に出たが、南下するバスに乗ったのが失敗だった。メトロカードという、1週間バスも地下鉄も乗り放題のカードを買っていたのだが、運転手がこの挿し込み口に手で蓋をして、そんなものはいいから早く乗れ乗れ、と叫ぶ。おいおい、そんなに非常事態だったのかと、ここではじめて気づいた。公園の西を、103ストリートあたりまで帰りたいのだがと運転手に訊くと、ほとんどタイムズスクエアあたりで降ろされ、ここから西側に北上していくバスに乗れと言う。
降りた場所は真っ暗だった。マンハッタンのすべてのビルが、ただの巨大な黒い箱になっており、窓にはただひとつの明りもともってはいない。なかには、蝋燭のものらしい明りがぼうとともり、何かの影が揺れている窓もある。しかし、ほかはひたすら漆黒の闇だ。
この光景は、長く忘れることはないだろう。明りはただ地上を行く車のヘッドライトのみ。馬鹿でかい音でステレオをかけて走っていく車もある。音楽はというと、それだけだった。巨大な黒い箱の群れ、そして漆黒と無音の世界、世界の終る時もまた、こんなふうなのだろうか。
闇のマンハッタン、これはずいぶん貴重な光景であり、体験だった。高層ビルに暮らす住民は、今夜は山に登るほどに、延々と階段を登っていくことになるだろう。摩天楼都市は、電気があってこそ成立するのだ。
バスを待ったが、やってくるバス、やってくるバス、みな満員で全然停まってくれない。考えてみれば当然だ。地下鉄が止まっているのだ。みんな地上に出てバスに乗っている。だからバスは、運べる人間の許容量を越えているのだ。
ずいぶん待ってみたが、どれも停まる気配がないので歩くことにした。みなも次第にあきらめ、バス停を離れてぞろぞろ歩きはじめている。
この時、これはまずいことになったかなと、ようやく思った。取ったホテルはかなりの北、悪名高いハーレムにほど近い安宿である。この時期、いきなりだとそういうところしか空いていないと、この地の知り合いが教えてくれたのだ。77年のニューヨーク大停電の時は、このハーレムあたりから暴動が起こり、商店の略奪が始まった。
闇の中、大変な距離を歩くことになって、これはもう何が起こっても不思議はないと覚悟をした。たまにニューヨークにやってきたら大停電に命中とは、いったいどういう巡り合わせなのかと笑いたくなった。しかし、こんなところで命を落としたら笑うに笑えない。
だが、北に向かうにつれて増えてきた黒人たちの姿も、さいわいまったくの平穏だった。彼らは道端に椅子を出し、フラッシュライトの光を頼りにビールを飲んで、仲間たちとげらげら笑っていた。
しかし、大勢の人に混じって歩くにつれ、不安も感じた。もう何時間にもなるが、電気はまったく回復する気配がない。今夜一晩くらいならいいが、このまま何日も停電が続いたら、このあたりの黒人たちはさすがに無事ではすむまい。
沿道のレストランはみな早々と店を閉めていて、一軒だけ開いていたレストランは、アウトサイドのテーブルまでぎっしり満員だった。とても入れそうではない。サブウェイも、スターバックスも閉まっている。今夜はどうやら夕食は抜きになりそうだ。
公園内をすでにさんざん歩き廻っていたから、まったく立っているのが辛いくらいになるまで歩いて、ようやくホテルにたどり着いた。ひょっとして閉まっているかと思ったが、無事ドアは開いていた。
部屋は当然真っ暗で、電灯も、テレビもつかない。だから情報が全然ない。電話は通じない。セルラーも持っていないから、知り合いに尋ねることもできない。リンコさんの「笑うニューヨーク」は持ってきていたが、電話番号を書いて持ってくるのを忘れたので、彼女にもかけられない。場所も、ここからは遥かに離れている。今頃彼女ははどうしているのだろうと思った。
トイレを使用して、水を流していいのか不明だったが、まあいいだろうと流した。シャワーは、お湯は出ないが水は出た。あれこれ考えていてもしようがないし、腹が減るだけなので、冷水のシャワーを浴びてそのまま眠ることにした。こういう時はそれが一番だ。あわててもしようがない。どう考えても、待つ以外には何もすることがないのだ。
電気が来たらすぐ解るように、電灯のスウィッチは入れておいた。部屋は2階だったので、往来の大声は聞える。しかし、格別険悪な様子はない。
デジカメ日記 バックナンバー

Copyright 2000 Hara Shobo All Rights Reserved