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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第162回
島田荘司のデジカメ日記
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4−11(金)、おなぎ教授と会食。
4月19日にケーブルTV、ミステリー・チャンネルというものの、「ザ(ジ?)・インタヴュー」という番組に出ることになった。内容はよく知らないのだが、15分ずつ4回に分けてヴィデオ収録をするらしい。そして1時間枠として一挙に連続放映することもあれば、短時間枠で15分ずつ、単発的に流すということもするらしい。
ともあれ、どこかにすわってカメラの前、1時間以上1人で喋りっぱなしなので、講演のようなものであり、それなりにテーマを考えておかなくてはならない。だからインタヴューアーにどんなきっかけを作ってもらうか、それなりに打ち合わせが必要ということで、インタヴューアーをお願いした日大教授のおなぎ先生と音羽の光文社そばで、ということは講談社のそばでもあるのだが、食事をご一緒することにした。おなぎさんは、文芸評論家でもある。
カッパノベルスのデビュー当時からよく来た寿司屋でミーティングすることになった。コーディネイターは、おなじみカッパノベルス副編集長、A井N充氏である。
光文社のもと担当、竹内女史も顔を出してくれ、一緒に食事をすることにする。彼女や、当時のカッパノベルスの編集長、佐藤隆三氏などと、この寿司屋には何回か来た。吉敷竹史の人となりを決めたのはこの店ではなく、たぶんミナミという近くの喫茶店だったが、ここでもその種の話はよくした。
寿司屋に向かいながら、竹内女史と話す。吉敷の外貌などは、ほとんどこの人の趣味が入っている。男性には一家言があるのだ。そんな話になったから、福田官房長官の話をした。竹内さんはこの福田さんの声と話し方のファンで、以前かなり騒いでいた。田中真紀子さん問題で揺れている頃で、記者からその手の質問が出ると、福田さんはふふんて鼻で笑うんですよ、あれがいいの、と熱く語っていたから、福田さんは茶の間の女性に大人気ですよね、とぼくは水を向けてみた。すると竹内氏、さっとこっちを向き、どこが? と言う。え? とぼくが言うと、あの人、なんかオランウータンみたいじゃないですか、と言ったのであった。
オラ……、とぼくは絶句した。この手のひらを返したような豹変ぶり、何かあったのであろうか。彼女は今、フランスのドビルパン外相がいいのだそうである。彼はずっと外地で育ち、どこやらの大学を主席で゛出てと、えらく詳しかった。いやあ、女性の人気はあてにならんもんだなー、とぼくはこの時実感したのであった。

おなぎ先生はすでに来ていて、寿司屋の座敷で待ってくれていた。局のプロデューサーの方で大雑把な叩き台を作ってくれているので、これに沿って少しだけ話した。第1回は「作家への道」。つまりどういうきっかけで作家になったのか。作家になる前は何をしていたのか、といったようなこと。第2回は「御手洗潔と吉敷竹史」。この2人のキャラクターはどのようにして作られたのか。デビュー作にまつわる話。第3回は「ミステリーとは何か」。第4回は「LAから見た日本」。これは日本人論のようなことであろう。
まあいつも話しているようなテーマなので、口をついて出るものがいくらもあるだろう、とたかをくくり、プロデューサーの案を書いた紙をざっと2人で見て、それでお終いにした。始めたらどうにでもなるさ、とビールでさっさと乾杯し、もっぱらおなぎ先生の大学の話を聞いた。これが興味深かった。
最近は、大学教授もセクハラ問題にはすっかり頭を悩ませているのだという。たとえば大学当局から、女子学生の体にはいっさい触れるなというお達しが出ているそうで、ゼミでも、抗議中は女子学生の背後には立たないようにするという。いつどんな体の動きで、体が密着するかしれない。これで卒業後、学生に訴えられることがあるという。逆に、女子学生ばかりに熱心に教えていると、これは男子学生に卒業後、訴えられることがある。
そんなこんなで、卒業の時に握手を求めてきた女子学生に、教授が危険を感じて思わず手を引っ込めてしまい、学生が傷ついたという話もあるそうだ。
講義中も、一人の女子学生の顔を長く見てはいけない。これも訴えられる危険がある。したがって、顔をじっと伏せて講義をするか、視線をぐるり、ぐるりとさまよわせながら講義をする、というような技術マニュアルもできているという。
講義中、学生のできがあまりよくなくても、どこそこの大学の生徒は君らよりずっと優秀だぞ、などと言ってはいけない。「親の顔が見たい」、は特に言ってはいけない言葉だという。これらは卒業後の提訴の対象になる。
もしも訴えられたら、内容の如何に関わらず、問答無用に大学のイメージがさがるから、大学側は極度に警戒している。今は生徒の数が減っている時期だ。特にセクハラは世間のダメージが大きい。セクハラの成立は、相手が意に添わないと、たとえばクビを切る、閑職に廻す、給与をさげられる、そういう上位権力を持つ異性であることが条件である。この場合は、単位を与える与えないで、学生の従属心をコントロールできるという教授の立場が問題になる。
しかしこれは、ちょっとやりすぎではないかと思う。ここにも自殺ニッポンの絶望的な倒錯感性が顔を出す。「三尺さがって師の影を踏まず」式の儒教型、日本型尊敬強制が、臨界点を越えるとこんなふうに一挙に反転、教師への提訴攻勢になる。極限的な大尊敬は、ループして徹底冷笑とまったくの同意語となる。これは日本史、近代史、政治史によく見られる倒錯で、たとえば兵士の命は羽根より軽い→人間1人の命は地球より重い。鬼畜米英→マッカーサー崇拝。毒ガスサリンで本当の意味の市民救済、もういくらでもある。極限まで行けば、日本人は混乱して、どっちに転んでもよくなる。
アメリカの教授と学生は、たいてい友人としてのつきあいをする。これは医師と患者、弁護士とクライアントもそうだ。教師が威張ってごまかさないので、よく学生と議論になったり、さまざまな質問を受けやすくなる。そういう状態で常に学生を感心させるには、相当な実力と勉強量が要る。そうしたくないなら、威張って遠ざけるのが最も安全である。
こういう日本型の長い怠惰が、今このような形で、強引に叩き壊されようとしている。この国は今価値観の変わり目だが、保守勢力が道徳に逃げ込んで横着な抵抗をやるせいか、どうもあちこちが殺伐として、楽しくない。
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