島田荘司 on line
on line top Weekly Shimada Soji top
編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第155回
島田荘司のデジカメ日記
島田荘司のデジカメ日記
島田荘司のデジカメ日記
島田荘司のデジカメ日記
島田荘司のデジカメ日記
4−1(火)、太宰治と森鴎外の墓。
太宰治が、山崎富栄という女性と心中を遂げた場所は、吉祥寺のぼくの仕事場の近くにある。今は流れがずいぶん浅くなっているが、渓谷のようにV字にえぐれた玉川上水で、この川の三鷹寄りのかみにある、むらさき橋という橋のたもとから2人は入水した。橋の近くの斜面に、2人の履物が脱ぎ揃えられていたそうだ。
知らせを聞いた警察は、上水に舟を浮かべて数日間死体を捜し、しもの新橋という橋の付近で2人を見つけた。狭い川だが、新橋のところには、土手の急斜面の中途に棚のような場所があり、ここにしばらく2遺体は置かれた。太宰の遺体はその後すぐに阿佐ヶ谷の病院に運ばれ、富栄の方は顔が泥で真っ黒に汚れたまま、しばらく雨の中に放置された。梅雨の季節で、駈けつけた富栄の父親が、娘の体に傘を差しかけ、茫然と立ち尽くしていたということを聞く。
このむらさき橋から、むらさき通りをずっと南下して、連雀通りを右折する。そのあたりは三鷹市下連雀だ。やがて右手に、赤いテントに下田商店と書かれた小さな煙草屋が見えてくる。このモルタル塗りの家の2階に、瀬戸内寂聴さんが下宿していたそうだ。
散歩と呼ぶには少し長すぎる道のりだが、煙草屋をすぎてしばらく行くと、右手に禅林寺という寺がある。連雀通りからはかなり奥まった位置で、ここが、太宰と鴎外の墓がある寺だ。新橋から阿佐ヶ谷の病院、そして火葬場を経由して、彼の亡骸はここに直行したともいわれる。怒った妻が、夫の遺体を家に入れなかったとする風説があるからだが、このあたりのことはよく知らない。
このお寺は、日没までは門が開いていて、自由に中に入れる。本堂左手の小道を通って本堂の裏手に出ると、その一帯が墓所で、全体のおおよそ中ほど、1本の大きな桜の樹の下に、太宰治の墓はある。桜が満開の季節だが、見まわしても、墓所にお参りの人影はない。
薄桃色の花をいっぱいにつけて上空にひろがる、その枝ぶりのわずかな外側に、太宰の墓は立っていた。意外にも、右側に津島家之墓を従えている。息子が有名になって、代々の者の墓よりも大きくなった。
桜の真下、非常に居心地がよさそうな場所に本田家之墓という墓石が立つが、この墓石の白さ、新しさに較べれば、太宰の墓石は古び、すっかり黒ずんでいる。彼は昭和23年の6月に死んだ。その4ヶ月後にぼくは生まれたのだが、したがってぼくがここまで生きてきた時間だけ、この墓石はじっとここに立っていたわけだ。
女性に人気の太宰だから、墓には花があふれている。隣の津島家之墓にも花が挿されていて、これは太宰の方に納まらなかったから、こっちに流れたのであろう。
太宰の墓石に向き合うと左後方、太宰の墓から見ると、右斜め前方に、森林太郎墓と刻まれた鴎外の墓石がある。こちらは桜の枝からはずっと外側に立ち、華やかな太宰の墓に較べれば質素な印象だ。鴎外の墓石はそっけない。鴎外の文字などどこにもなく、林太郎の字にもあまり洒落っ気がないから、鴎外の本名を知らなければ通りすぎてしまいそうだ。
こちらは大正から立っているから、太宰の墓石よりも古びている。太宰に較べたら献花の数も少なく、野草ふうの花が数本挿さってあるばかりだ。あるいはこれも、ご近所の太宰さんからのお裾分けだろうか。
鴎外墓のこのそっけなさは、彼の遺言による。墓所に入ってくる小道の中途にガラスケースがあり、この中に、大正11年7月6日に書かれた鴎外の遺言書が展示されている。これにいわく、
「余は森林太郎として死せんと欲す。宮内省、陸軍、皆縁故あれども、生死別る瞬間、あらゆる外形的取り扱いを辞す。森林太郎として死せんとす。墓は森林太郎墓のほか、一字も彫るべからず」とある。さらには、宮内省、陸軍、栄典の類は取りやめるように、ともあって、墓碑銘はこの遺言に由来している。
これはもう遺志を伝えんとする文面ではなく、怒りの表現だ。彼はこうして、最後の瞬間には怒って逝った。誰に対してか。対面や家柄ばかりを重んじる常識ある親類縁者、ことなかれの政府や軍関係者たちにだ。彼らの鴎外への敬意はそれほどの嘘ではなく、非人情ばかりではなかったはずだが、沈黙のまままっとうした鴎外の抑制は、いささか度がすぎていたのだろう。
鴎外は新政府をになった長州の名家に生まれた。神童の誉れが高かったから、家の名誉と体裁のために生き、自分の自由などはなかった。ドイツ留学では、ドイツの新聞を自由に読みこなせる留学生は、彼以外にはいなかったといわれる。その語学力の故にか、ドイツ女性エリスが彼を追って横浜に来た。これは日本男子の栄光だったはずだが、家の者によって丁重に追い返された。
鴎外の書くものは、家の対外体裁にとって支障はないか、家の者たちによって始終チェックされた。いわば校閲がもう1組あった。彼は周囲のお膳立てにより、家のため、属する団体のためにはてしなく出世を続けて、体質の合わぬ陸軍にも長く居続けさせられたが、彼自身は祭りの神輿のようなもので、意志とは無縁の、周囲によって敷かれたレール上の進行だった。死ぬまで彼は、そういうトロッコから降りることは許されなかったが、臨終の床で、生まれてはじめて造反した。
そういう彼を太宰は尊敬して、自分が死んだら、墓は鴎外の墓石のそばに立てて欲しいと言った。何人もの女性と心中を繰り返してやっと死んだような色男を、軍人でもあった鴎外はどう思ったか。興味深いところだ。鴎外もまた、若い頃には異国の女性を虜にする力を持っていたのだ。しかし現在、女性ファンたちによる花の数には差がつく。
太宰は尊敬する作家がもう1人いて、井伏鱒二だが、こちらは太宰よりもずっと長く生きたから、井伏さんの墓の隣に、太宰は眠ることができなかった。
鴎外の墓のそばに、という遺言がかなえられた太宰は幸せだった。墓所がすいていたのだろうか。今ぼくが太宰のそばに眠りたいと願っても、もうここには余裕がない。
デジカメ日記 バックナンバー

Copyright 2000 Hara Shobo All Rights Reserved