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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第152回
島田荘司のデジカメ日記
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1−1(水)、横浜の追想。
2003年が明けた。今年は困難な年になるだろう。イラク攻めの準備をアメリカは着々と進め、北朝鮮は強硬な姿勢を強める。わが経済は、少しも回復の兆しを見せない。
こちらは暖かい。昼間、表は暖かいが、夜間になっても室内に格別暖房は要らない。東京から見ると、避寒地といえるだろうか。書くためには実にありがたい環境で、ぼくはどうやら渡り鳥のような生活をしている。これで効率よく書かなくては罰が当たるというものだ。
今年も頑張ると、決意を新たにする。不満など、探せばいくらでも見つけられる。探して不平を言っても仕方がない。倒れるまで頑張るのみだ。やらなければならないことは山ほどある。不思議なことに、小説以外のこれが、近年どんどん増えていくような印象だ。

温暖なこちらにいると、不思議なことに、厳しい日本の四季が懐かしい。すわっているだけで顎から汗が垂れる東京の夏、コタツから1歩も出たくなくなる異様な寒さの冬。しかしそれがあるから、これらがゆるんでいく季節には特有の匂いが生じる。この匂いというのは、実際に鼻に来る臭気の類ではなく、気配とでもいうべきものだが、そういう穏やかな感じとも少し違う。やはり匂いと書くほかない。匂いに似たもの、しかし実際に樹々の匂いもある。これはよいものだ。
日本のあの感じは、ここカリフォルニアにはない。あれが、古来から日本の歌人の歌心を刺激してきたのだろう。枕草子の冒頭の一節など、この感じをよく現している。われわれはあれを何気なく読むが、彼女はたぶん厳しい早朝の冷気とか、猛々しい大和の季節の翻弄のただ中にあって、あるいはそれを回想しながら、あれを書いていたのであろう。
今ぼくは、温暖なここで横浜を思い返している。思い出す日本は、東京より、多く横浜になる。特にあの、指が凍るようだった雪の夜が懐かしい。追想は、何故か厳しい体験の方が懐かしい。
東京にいると、時間が空けば横浜に行く。車に乗っているからだが、乗ればつい第3京浜に足が向く。これに乗れば、当然横浜に降りてしまう。これら横浜の写真は、だからみんな昨年のものだが、時期はまちまちだ。秋以降のものだが、年末に撮ったものとは限らない。ただ、たいてい夜になる。
ランドマーク・タワーの夜景は、着いたのが夕刻で、ワールド・ポータースの横を抜けて、ぶらぶら歩きが汽車道にかかったらちょうど陽が落ち、ビル群には灯が入ったが、背後の空にはまだ残光があって、ビル群が模型のように見えたから撮った。ストロボをオフに、脇をしめて慎重に撮ったら、こんな写真が撮れていた。背後が明るいので、手前のビル群の塊り感がけっこう写っていて、ありきたりの夜景ではないふうなので、割りと気に入った。しかし手持ちではこれが精一杯で、少しぶれている。次の機会には三脚を使い、もう少しきめ細かく、細部にピントを来させる感じてこの時刻を写してみたい。
汽車道を渡りきり、右折して1号ドックの中に降りてみると、人けのない石敷きの底がライトに照らされていた。ライトには文字が書かれていて踊り、なかなか面白い効果を出していた。この床から、ランドマーク・タワーが見上げられる。井戸の底から遥かな塔を見るようだ。
オープンしていた赤レンガ・モールには、何度か行った。意外に小じんまりした印象になっていた。それはふたつある赤レンガ倉庫のひとつしか、ショッピング・モールには使っていないこと、敷地が異様なまでに広々として、しかしそこには何もないからだ。もうひとつの倉庫は、映画館などのイヴェント・ホールになっているらしい。しかしガラスで覆ったアウト・サイドのレストランは、なかなかよい感じにできあがった。
何度目かに行った時、ちょうど「Ground Angel」と題するライト・ショウのイヴェントをやっていた。イヴェント・ホール側の建物の外壁に足場を組み、ここから石敷きの広場に向けて光線を落とす。光にはさまざまな模様とか、文字が含まれていて、これが地を揺するようなロック・ミュージックとシンクロして、ゆるゆると変化する。石段に腰を降ろし、しばらく見物した。そしてストロボをオフにして、この写真も撮ってみた。光量が強く、白いような時、デジカメならなんとかこのくらいに写る。
モール内のカフェでココアなど飲み、それからぶらぶら馬車道まで行くと、ポニーがまだ営業していた。ショウ・ウィンドウに寄ると、エビフライのサンプルがある。
店の前を折れて路地に入り、馬車道十番館の前を通ってみる。店内の灯が、表の路地からは暖かそうに感じられた。牛馬用水も、小さな大砲(という言い方は妙だが)も、アンティークな電話ボックスも健在だ。
左に折れて馬車道に戻り、伊勢崎町モールに向かっていくと、「飲みま専科、歌いま専科」の看板が新しくなっていた。「里美上京」に登場した頃、これはひとつ前の世代で、以降これはカズミストたちの馬車道詣での名所となった。オフ会のたびに写真に収められたが、写すたび、ぼこぼこになっていくという話を聞いた。確かにぼくが見たときも、プラスチックがあちこち割れて、透明ガムテープによる修復の跡が目立った。そしてついに姿を消したので、もう現れることはないのだろうと思っていたら、見事新世代の登場となった。以前のものは縦長だったが、今度のものは正方形に近い。まったく同じ文句で再登場とは、経営者はよほどこの文句が気に入っているのであろう。

今妙に感受性が動くのは、最後の写真である。これは開港広場に接した北、大桟橋に向かう道に沿ってあるカフェバーの連なりを、道路越しに撮った。真っ暗だったから、これ以上は撮れなかった。シャッターをじわりと押した時、凍えるほどに寒かった。
ここは居留地関内にとっては記念すべき場所である。大桟橋に向かうこの南北の道で、関内は2つの地区に分けられていた。東、大桟橋に向かって右側が外人居留地、西、つまり左側が日本人居住区だった。外人居留区は、ゆったりと空き地を取って家々が並ぶが、日本人地区は、今と同じ、平屋の密集地帯だった。
幕末、この広場のあたりに運上所という陸揚げ荷物の改め所が設けられて、その周囲には一膳飯屋の類がたくさん建った。そして日本人、紅毛人が入り乱れて食事をした。文明開化の以前に、ここだけは今のロスアンジェルスのようだった。
ここから外人居留地に向け、英国人の設計で日本初の下水道が作られた。この史跡にはガラスの蓋がかけられ、今はレンガ積みの下水機構の一部が覗けるようになっている。この写真を撮ったみぞれの夜、下水遺跡のガラスの蓋には水滴がつるつると流れ、レンズの前をさかんに白い雪辺が横切っていた。
広場前は変形の十字路になっていて、このぐるりにはなかなかよい店がある。歴史的にも重要な場所だが、この一角には今もその気配が残って、とても好ましい場所だ。
居留地側、かつて英国大使館があって、地番が1番だったから一番館と呼ばれたのだが、そのあたりには今ジョナサンズがあって、ここの窓際、2人用の小テーブルにつくと、散り敷いて、すぐ足もとの舗道を黄色く埋めた銀杏の葉を眺めながら食事ができる。余談だかこの1番という地番は、居留地として提供した土地に目印がなく、混乱したから幕府があわててふった。ここから始めたので、ここが1番になった。この地番は今も使われている。
このあたり一帯は銀杏の樹が多く、晩秋の頃には、舗道は一面に黄色く染まる。そしてこんなみぞれの夜には、それがみるみる黒ずんでいく。
開港記念館脇の噴水の広場にも落ち葉は多い。が、これは銀杏ではない。このすぐ北の角にはスカンジナビアというレストランがあって、ここの窓ぎわからは開港記念館や、噴水を眺めて食事ができる。その並び、大桟橋の方角に行くと、左側にカフェバーが並ぶ。この店々の壁や軒下に付いた赤や緑のネオンが、黒く濡れた歩道の敷石に映じて滲む。その上に雪が降りかかり、熔けていく。
舗道の店寄りに置かれたテーブルには、こんな夜だから当然人けはない。近寄り、店内を覗くと、市松模様の床に並ぶテーブルにも、客の姿はない。先に交番があるが、この中にも巡査の姿はなかった。
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