島田荘司 on line
on line top Weekly Shimada Soji top
編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第145回
島田荘司のデジカメ日記
島田荘司のデジカメ日記
11−29(金)、読売新聞、石田汗太記者、インタヴュー。
先日の「鮎川先生を偲ぶ会」で再会した石田汗太記者がインタヴューをしたいというので、この日、駅前のルノアールで会った。問われるままに話したが、まずは文春の最新刊、「魔神の遊戯」の話からだった。
これは以前から暖めていた、本格のアイデアを使って書いた。本格のアイデアは、以前は大学ノートにぎっしり書いていたが、今はフロッピーに入れている。中には物語が細かく書き込まれ、短か目の短編小説くらいまで完成しているものもある。「魔神の遊戯」は、その中からほぼAのランクと判断できるものを引っ張り出し、書いた。そういうことを話した。
しかしAのランクとはいっても、それはアイデア(イクオール、トリックとは限らない)の質を機械的に判断してということで、それがAランクのミステリー小説を導く自信がある、という意味ではない。たとえばBのランクのアイデアだと思っても、これがBのランクの小説になるとは限らない。
試しに拙作のリストからいえば、「涙、流れるままに」は、アイデアはAではない。しかし、小説はAだと言ってくださる人がいるし、自分でもこれは大事な作品と思っている。「出雲伝説7/8の殺人」は、これはAのアイデアと思う。しかし、小説がAの評価を受けているのかどうか、自分ではよく解らない。
概して、自分でAと思うアイデアが、小説としてBの結果になることは少ないと思うが、BのアイデアがAになることは割合あると思う。極端な例を挙げれば、「秋好事件」、「三浦和義事件」は、本格のアイデアとしてみれば、せいぜいBとCであろうと思う。しかし小説としてのできは、自分ではAと感じる。
こういう話は、自分でするのはむずかしい。たとえ他人の作との比較ではないにしても、自作をAと評するなど唾棄すべき慢心とみなし、道徳糾弾のストーリーを組むことは日本では誘惑であろう。しかし他人の作をあれこれ言うことはさらにむずかしいし、非難を恐れれば、この種の話は永久にできないことになる。
今「本格の小説」という言葉と、ただ「小説」という言葉を混在させたが、そういうこととも関係がある。本格としてAのアイデアなら、出てくる小説も本格のランクはAで、本格としてBのアイデアなら、出てくる小説も本格のランクはBとなる。これはまず動かない。しかし本格Bでも、小説としてはAとなることがある。まあそういったことだ。小説が本格ミステリーの範疇に入るならば、本格としてのアイデアはいわば骨組みであるから、どんなに立派な筋肉をまとわせようとも、レントゲン写真には隠しようがない。しかし小説という人間には、骨が華奢でも魅力的な人物はあり得る。ただし異端審問官型の本格マニアは、小説としての部分には関わらず、レントゲン写真しか見ない。そしてこれをプロ型の判断視線とする傾向はある。
しかしこのAだのBだのという評価も個人的のもので、読者や評論家の評価と重なるとは限らない。それに、出てすぐの評価はあまりあてにはならない。時の流行もあるし、賞がらみの政治とか、ベストテンを載せる雑誌の属した出版社の思い、これを読む関係者、そういったさまざまな思惑もある。過去に定評のある作品を複数書いた作家と思えば、新作を彼の過去の作と比較して無視したい心理も働く。
しかし拙作に関しては、10年20年と時間が経てば、だいたい自分の評価と、読者の評価とは重なってくるように思っている。つまりは、ある作品の評価とは、偉い人が短時間に行ない、これを権威でもって一般に強制するようなものではないということだ。こういうものは、往々にして時間に風化する。威張ったマニアの評価も似たようなもので、実は謙虚な、声なき偉大な多勢、サイレント・マジョリティが総合的最終評価を下す力を持っている。だから出版直後の評価が低くても、あるいは無視されても、まったく気にする必要はない。以後地道に力作を重ねていけば、読者の評価は必ずついてくる。これが20年仕事をしてきて、後進の才能たちに自信を持って言える、ぼくの結論である。

「魔神の遊戯」に関しては、宗教問題にも言及した。アメリカは、今イラクを攻めようとしている。これは現大統領ジョージ・ブッシュの、父親が大統領であった時代から、ほぼ決定されていた結論であろう。アメリカは、イラク、イラン、北朝鮮を悪の枢軸国と名指ししたが、対イラク国連査察で、核と生物化学による大量破壊兵器は見つかっていない。一方北朝鮮は、核を開発していることがはっきりしている。航続距離に関しては諸説あるが、かなり高性能の大陸間ミサイルを持っていることも明瞭だ。しかしアメリカは北朝鮮は攻めず、イラクを攻める。
これはむろん対戦国の石油の有無というアメリカの国益の問題である。しかし、イスラエルを助けるという、ユダヤ教民の救済が第一に考えられていることも明白である。警察国家アメリカが、911テロとの関連が未だ証明できないイラクを、50万人という罪のない死傷者がたちまち出ることを承知で、テロ撲滅という理由で先制攻撃する。この奇妙でできの悪い小説も、巡り巡れば宗教問題に行きつく。
「魔神の遊戯」に現れた、陰惨だがささやかな殺人の、数十万倍の殺戮が、警察行動の名のもとに近く始まろうとしている。互いに感涙にむせびながら、正義と正義が衝突する絶望の一端を、この小説でも描いてみたかった。

もうひとつ、「魔神の遊戯」では、石岡ファンにしてみれば、御手洗が異郷で単独行動している。まるで横浜の親友など眼中にないかのように、日本時代に倍して生き生き言動している。御手洗はいったいいつ日本に帰るのか、石岡は棄てたのか、といった質問をこの頃よく受ける。
横浜にいるよりも力を認められ、実力が発揮できる場所が海の彼方にあるのなら、そこで活動させてあげるのが誠意であり、愛情というものであろうと思う。いったいに日本人は、同胞が海外で死ねば、遺骨を拾って国に持ちかえってあげるのが当人の幸せと信じて疑わない押しつけがましさがあるが、当人が望んで異郷の土になるのなら、それはそれで幸せであろうと思う。威圧され、ジャングルで消耗部品のように玉砕させられて、ぬかるみになかば埋もれながら骸(むくろ)に朽ちたわけではない。
こういう遺体は、必ず遺骨を拾わなくてはならない。事なかれの政府と事を構えてでも、遺骨収集団は断固ガダルカナルに行くべきである。ところがこの惨めな遺骨だけはいっさい手つかずで、いくら声をあげても、みな少しも動かない。
これを見ても解るように、一部の日本人は、愛情から才能を国に戻したいのではなく、平等主義の見地からの定番不平として、これを言っている可能性は考慮しなくてはならない。一人だけ英雄にならないで欲しい、みんな平等に国内で頑張っているのだから、といった素朴な道徳感、すなわち嫉妬である。
もうひとつ、御手洗物語に関しては、以前からの定番批判、ホームズものの模倣だとする陰口に回答したい思いもある。ホームズものも、デュパンという先例の踏襲といえなくもない。デュパンのものも、男2人の知的でユーモアのある掛け合いをもくろむ要素には、多くの先例があることと思う。ポーは読んではいないだろうが、わが国にも「東海道中膝栗毛」という名作がある。
いつまでも御手洗・石岡というコンビの魅力に依存して小説を書いていたなら、これこそはホームズものの商売人的模倣という糾弾に材料を与える。コナン・ドイルは間違いなく偉大な才能であったし、彼への敬意ではぼくは誰の後塵も拝しようとは思わないが、御手洗はもっと自由人であり、ホームズの時代には不可能であった地球規模の行動力を終始示しながら、ホームズものとは違った冒険物語を創造してみたいと考えている。
とまあ、いったような話をした。
デジカメ日記 バックナンバー

Copyright 2000 Hara Shobo All Rights Reserved