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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第144回
島田荘司のデジカメ日記
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島田荘司のデジカメ日記
11−28(木)、江ノ島。
時間ができたので、ふと思い立ち、江ノ島に行った。鮎川先生を偲んでみたくなった。
あれはもう10年近くも前になるか。ある冤罪事件の調査で江ノ島に行ったことがあり、それがここに行った最後だ。このことについては今はまだ語ることができないが、いつかは話せる時が来るだろう。その以前が、鮎川先生との散策の際だ。以来、もうずいぶん長いこと行っていない。鮎川先生と並んで石段をあがった、その時のことを思い出してみたくなった。
湘南道路を江ノ島に向かっていると、彼方に夕陽が落ちていく。富士山がくっきりとシルエットになって、江戸時代と変わらない眺めだ。背後のオレンジ色は、サンタモニカのものとはどこか違う。いわば和菓子の色で、白い。昔の旅人も、こんな景観を観ながら旅をしたのだろう。
橋を渡って島に入ると、下の舗装や白線も新しい、時間の駐車場がある。ありがたいことだが、午後9時までに出さないと、もう出せなくなるとしっかり書いてある。このあたりの脅し方がさすがに日本で、LAならこれはない。9時までにここに帰れなかったら、このあたりに宿を見つけて泊まるほかはないのだろう。
橋のたもとあたりは、以前よりもずっと綺麗になっている。足もとに敷かれた石、置かれたベンチなどが新しい。石畳みの参道にかかる頃にはまだかろうじて陽があった。しかし、魚とかサザエを売っている店、貝細工の土産物屋、鶴太郎美術館とか饅頭屋などを見ながら歩みが石段にかかると、没した。
沿道の石畳もどこか新しい。鶴太郎美術館などは、以前はなかった。そして石段をあがるにつれ、あらためて驚いたことだが、江ノ島は暗い。石段には、ところどころにかろうじてともる街灯、1軒だけある真新しい公衆トイレの明りのほかには、照明らしいものがない。沿道を整備しても、照明は入れない主義らしい。こんな暗い道は久しぶりだ。
この石段を、鮎川先生とあがったのだが、あの時はまだ時間が早かったから、周囲は充分明るかった。踊り場がある。ここで鮎川先生は、足の屈伸運動をされていた。どんな話をしたかはもう忘れた。口数の多い人ではなかったし、ほかに編集者もいたから、そちらとの会話の方が多かったのではないか。あるいは先生は、この時少々しんどかったのかもしれない。ここで会話をした記憶はどうもない。
石段の中途、左手から江ノ島のマリーナが見降ろせた。こちらは暗いが、そのあたりは全体に明るく、クルーザーが整然と並んで、都市文明の一角というふうだ。石段をあがりきり、上下しながら尾根伝いに続く道にかかったら、ますます周囲が暗くなった。完全に江戸の宿場のような風情で、沿道の店々はもう雨戸を閉じ、早々と眠りにつこうとしている。まだ夕刻の部類だと思うが、この地の夜は早い。
ところどころに立つ石の道標のすそあたりに、まるで線香の火のような、赤や緑のごくささやかな明りがともる。これはこの地区のマークを示しているらしい。明りといえばそれだけで、だからたまにすれ違う人は、帰ってくる人ばかりだ。こんな刻限に、島の奥に向かう者はない。石の中に明かりを入れるという趣向が、また江戸的だ。これは趣味のよいもので、外国ではあまり見かけない。
植物園も、もう閉まっている。沿道に、1軒だけ開いている土産物屋を見つけた。貝殻細工をショウケースにぎっしりと並べ、煌々と明りをともしている。周囲にはまったく明りがないから、これが異様に眩く感じられ、なにやら覗きカラクリでも覗くような、夢のような明るさに見えた。そのせいで、この周囲にだけは若干の人溜まりがある。
低い石段をあがり、後方を振り返ると、山の頂きには江ノ島の鉄塔が見える。明りがないので、闇に沈んで輪郭は淡い。妙に造形的で、巨大なロボットのようにも見える。驚いたのだが、隣にもうひとつ別の塔ができつつあった。これは安全ネットをかけているせいで、今のところ魔法瓶のようなかたちをしている。観光塔だろうか。拙作「眩暈」の象徴的光景も、どうやら変わろうとしている。
あの塔には、昔あがった記憶がある。しかし鮎川先生との時ではない。もっとずっと昔だ。だいたいぼくは、塔と名がつくものにはみんなあがるくせがあり、横浜のマリンタワーには、粋狂にも歩いてあがった。そうしたらあの頃、プラスチックの定規をご褒美にくれた。塔のふもとのモールにはバードピアがあって、まさにあれは「異邦の騎士」の時代だ。
江ノ島の鉄塔には、たぶん階段しかなかった。しかしマリンタワーの時ほどしんどかった記憶はないから、あるいはエレヴェーターがあったのか。この塔に関しては、ちょっと面白い話がある。以前、岡嶋二人さんの1人、徳山さんから聞いた話だ。もう記憶の彼方になってしまったから、あるいは複数の人から得た話かもしれない。小説家は普段よく空想しているので、たまにとんでもなく事実と違う記憶ができていることがある。夢でも見たのでなければ、こんなような話だった。江ノ島の鉄塔は、戦前には二子玉川に建っていたのだという。そして落下傘部隊の訓練用の塔だった。頂上部分から地上に向かってワイヤーが斜めに結ばれ、この斜面を兵隊が滑り降りた。戦後、これを解体して江ノ島に運び、今日のような観光塔として再建した。
二子玉川には陸軍関係の施設があったらしく、多摩川の土手の上を、よく陸軍の戦車が走っていたと彼は言った――ように思う。それを彼が直接見たのか、伝聞かは解らない。いや、彼は確か昭和18年の生まれだった。終戦時2歳では直接は見られない(正確には昭和18年8月1日生まれで、なんとあの田村正和と同じ日の生まれである)。この話には感動して、ぼくの頭の中で、江ノ島の塔はミステリー記号になった。それがたぶん、のちに「眩暈」に発酵したのではないかと思っている。二子玉川にそびえる落下傘部隊の鉄塔、その下に集結する戦車群、これは幻想の風景である。今見上げる塔も、こうして江戸の暗がりの上空にそびえる。
そしてこれが面白いのだが、徳山氏は二子玉川の家で育った。ぼくが彼と知り合った頃は、この家と等価交換して、駅前の立派なライオンズ・マンションに住んでいたが、彼が子供の頃、上野毛駅から歩いて帰宅できる一帯はただの野原で、家といったら徳山家しかなかった。だから拙作「占星術殺人事件」に、一枝殺害の家、またアゾート制作が疑われる家が出てくるが、あれは自分の家ではないかと思う、と言っていた。そうなら、これはデジカメで是非撮影させてもらいたいものである。
土産物屋を過ぎ、鮎川先生との散策時、終点とした店を探した。食べ物屋だけは、まだかろうじて開いていた。しかしどうにも見つからない。それらしい家があったのだが、妙に新しく、感じが違う。
入ってみたら、どうやらこれだった。窓際に寄り、そのあたりの席についてみたら、窓からの眺めに見憶えがあった。今はもう暗く、海面も黒い野原のようだが、対岸の街や道路の明りが記憶を甦らせた。あの時は、確か座敷だったと思う。今でも座敷の一角は店内に残してあるが、当時は全面お座敷だったような記憶がある。座布団の上にあぐらをかき、座卓について対岸の景色や、足もとの海を見た。
あの時、何を食べたのだったかは忘れた。サザエのつぼ焼きだったかもしれない。それとも食事は小町通のつもりで、甘酒だけ飲んで帰路についたのだったか。この時の鮎川先生は、長い道のりを歩いてきた疲れはまったく見せず、ずいぶんとお元気だった。それから約10年で亡くなられたのだが、この時、とてもそうは見えなかった。
先日のニ楽荘での偲ぶ会で、われわれのスピーチが終った後、奥さんがわれわれに応えるようなかたちで立たれて、鮎川先生の最後の様子を少し話された。マンションを改装中で、この完成を見ずに逝かれたこと。そして入院され、かなり苦しまれたということを聞いて、これがちょっと嫌だった。この瞬間、はじめてこれがお葬式の一環であったことを思い出した。
鮎川先生の追憶というと、含羞のあの笑顔、そしてちょっと鼻にかかったふうの、あの柔和な話し声の様子しか脳裏にないので、苦しまれたという表現が、どうにもイメージできなかった。
これを書いている今、鮎川先生の訃報を報せる複数の新聞記事のコピーが手もとある。主要情報部分は共通している。これを引き写すと、「本名、中川透。(2002年9月)24日午後4時58分、多臓器不全のため、鎌倉市の病院で死去。83歳」とある。奥さんのお話では、免疫力が極度に衰えられていたということだった。
死は厳粛なものだが、それはたぶん、あまり情報を得ないゆえではないか。死の際の苦痛について聞けば、これはやはり辛く、嫌なものだ。
この夕、鮎川先生を偲んで海鮮丼というこの地に特有の献立を食べ、帰宅した。
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