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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第139回
島田荘司のデジカメ日記
島田荘司のデジカメ日記
11−16(土)、鮎川先生を偲ぶ会。
偲ぶ会の会場は、小町通を折れて少し入ったあたりにあるニ楽荘という中華料理屋の、2階の畳敷き大広間だった。いつか紹介した、ミルク・ホールという喫茶店のすぐそばである。鮎川先生は、ここの鳥料理などが好物だったという。記帳をすると、中に本やヴィデオなど、いろいろなものが入った紙袋と、白いカーネイションをくれた。献花のためである。
靴を脱ぎ、座敷に上がると、正面に白い布をかけた卓があり、この上に鮎川先生の笑った写真が額に入って掲げられている。手前に、お別れをしながら花を置くスペースが用意されていた。
広間には円卓が点々と置かれていて、そのぐるりには白布のかかった座布団が置かれている。後方の卓にしようかと思ったが、それは許されず、確かに創元社からトリのスピーチをと言われていたので、前に出るには前方の方が具合がいいかと考え、中央、1番前の卓にした。A井さんも、ここにすわった。宇山さん夫妻もいっときすわっていたが、私はここはちょっとおこがましいです、と奥さんが言って、遥か後ろの席に逃げていった。
先生の写真の前に、たちまち列ができる気配なので、あまり遅くならないうちにと考えて、ぼくも列の後尾についた。まだ時間が早かったので、すぐに先頭に出た。右手に親類の方たちらしい一団のテーブルがあり、奥さんがこちらに向かれて正座をされていた。前の人たちにならって、まず奥さんに一礼をした。奥さんは笑って礼を返された。それでこの時、この集まりは湿ったものではなくて、関係者たちが楽しくやろうとする会であることを心得た。
献花をし、手を合わせて祈り、後が続いているからすぐに席に引揚げた。ぼくの場合、自席からも写真はよく見える。席から充分思い出にはひたれる。
やがてどやどやと大量の客が現れ、あがりぶちが渋滞する。献花の列もみるみる長くなって、写真の前の白い花も山を成した。座敷にあがってくる客たちを見ていたら、当然ながら知っている顔が多く、その中に、思いがけず綾辻行人氏の姿が現れた。彼は関西だし、今日は来ないと聞いていた。ちょっとこちらに会釈をして、ぼくの隣に来た。散策には来なかったんですね、と訊いたら、今朝急に思い立ったんです、だから今着いたんですよと言う。
そうしていたら、宮部みゆきさんの姿が見えて、彼女もこちらに来て、綾辻さんの隣にすわった。それでぼくらの卓は満杯になった。山口雅也さんの顔も見え、ちょっとこちらに会釈してくれた。貫井徳郎さんが、わざわざそばに来て、正座して挨拶してくださったので恐縮する。彼は奥さんの加納朋子さんと、お嬢さんが一緒だった。鮎川先生が引き合わせた一家族ということだろうか。法月氏や、笠井さんの姿も見えていた。

たちまち大広間はぎっしりの人で埋まる。2百人近くもいただろうか。鮎川先生の人柄で、ずいぶん大勢の人間が集まった。全員がすわったことを確認し、もと光文社の森川氏の司会で、会が始まる。広いし、人が多いから、マイクが用意されている。
ここ20年というもの、ずっと親しくしていた山前譲氏がまず立って、鮎川さんが葬式はしないでくれと言っていらしたこと、偲ぶ会も辞めてくれと言っていたが、これは別にとりたてて先生を偲ぶのではなく、われわれが勝手に集まって、たまたま先生を思い出すだけだからかまわないのだ、というようなことを言った。
葬式もお断りとは、鮎川先生らしい。先生のそういうところが、ぼくは最も好きだった。欺瞞めいた儀式は嫌いなのだ。自分が死んだ時もそうありたいものと思う。湿っぽい、お定まりの葬式など必要ではない。みなに涙など強制したくはない。偲ぶ会もいらないが、まあ誰かが勝手に集まって酒を飲み、そのついでにぼくを笑って思い出してくれるというなら、格別反対はしない。
鮎川先生ゆかりの方々が前に出て、先生を送るスピーチを始めた。鮎川先生は、同じ鎌倉在住の作家としては、津村秀介さんとの親交が最も深かったと聞く。取材旅行とか、例の山歩き、ちょっとした行楽の旅などには、よく津村先生がご一緒したらしい。しかしその津村先生も、もう鮎川先生より一足早く他界された。
鎌倉在住の、もう1人のミステリー系の作家、斎藤栄さんがまずトップバッターに立って、鮎川さんの思い出と、お悔やみを述べられた。続いて年輩のお偉方が多く立ってマイクを持ち、思い出を話された。誰の顔にも笑みがあり、それがごく自然な、なごやかな会の進行だった。偲ぶ会は、やはりこれがよい。
親友のように親しかった、もと徳間書店の松岡女史のスピーチのあと、戸川会長が立って、お土産袋の中身についての説明をした。それで、みながいっせいに袋を探る、がさがさという音が会場に満ちた。
先生はTVの録画マニアだったから、家に何千本ものVHS録画テープが遺った。処分もできないので、この中に2本ずつ入れ、みなさんにさしあげる。でももしかして、裏番組が入っているかもしれない、先生は機械音痴で、録画予約もできなかったし、中にはなかば眠りながら録画ボタンを押したものもあるから、何が撮れているかは保証の限りではない。
本が入っているのは、先生の著作が大量にあるので、一部をみなさんにさしあげたい。何が入っているかは解らないという。ぼくのものは、先生の御作、角川文庫版「青のエチュード」だった。
そのほかには、鮎川先生の名前入りの原稿用紙が大量に余ったので、何十枚かずつ丸めて入れてある、各自記念にお持ち帰りください、ということだった。見ると、白紙の原稿用紙が丸められ、輪ゴムで留められて入っていた。
入れ替わり立ち替わり、スピーチの主が前に出て話すが、だんだん歳が若くなっていく。鮎川賞系の作家たちで、最後がぼくなのだが、ぼくの場合はもう若くない。ぼくの前は、有栖川有栖さんだった。彼は関西人なので、話がいつも面白い。このレストランは名前をニ楽荘というが、ここで鮎川先生と食事をした時の思い出話をした。以下のような内容だったと思う。
「この店はニ楽荘という名前ですが、二つの楽しみとは何でしょうね」と先生が突然言われた。先生は何ですかと有栖川さんが問うと、「楽しみは、それはひとつはミステリーを読むことでしょう」と言われる。もうひとつは? 「もうひとつは、それはアンソロジーを編むこと」と言われた。有栖川さんが、「書くことはどうなんです? 先生」と言ったら、先生は笑って、「いや、書くことはですねぇ」てんてんてん……であったという。
ぼくの番になったので、前に出て話した。この時の内容は、翌日くらいの岩波さんへのメイルに、一部始終を思い出して書いておいたので、これを下に貼ってみる。

島田荘司です。鮎川先生とは、このところの十年間、大変親しくさせていただきました。今日は戸川会長とAの散策コースを歩いてきましたが、これは私の場合は、立風書房でアンソロジーをご一緒に編ませていただいた時期、何回かご一緒に歩いた道です。
この頃の私は、フライデーという雑誌で「世紀末日本紀行」という連載をしている時期だったのですが、これは撮りたいと思っている写真が、いつ撮影可能になるか解らない、また世の中にどんな事件が起こるか解らないということで、編集部にポケベルを持たされていました。綾辻さんという人がこれを確認しについてきて、ポケベルを見せたら「わーい本当に持っているんだ!」と、何故だか大変喜んでいました。
鮎川先生は、この綾辻さんの登場を格別喜んでいらして、よく買いに寄る肉屋さんにも、「ちょっとちょっと綾辻さん」と呼んで連れ込み、「これが綾辻行人さんという新進推理作家なんです」、と紹介していました。散策の途中にあった、もう皆さんよくご存知の洋館も、鮎川先生が、これは綾辻さんの館シリーズの舞台にぴったりと見当をつけていて、「綾辻さん、今度これを舞台にしたらいいですよ」とアドヴァイスされていました。
鮎川先生は、コース途中の休憩所をすっかり決めていらして、このコースの場合はこの喫茶店、こっちのコースはここで休憩と、段取りがきちんと決まっていました。鮎川先生にとっては、散歩もまた細部まで決定された儀式で、鮎川先生の本格作品の体質を、そこに見る思いがしました。
散策の後は、小町通のレストランに入り、自分が選んできた戦争前後の名作のコピーをどんとテーブルに載せ、しばし歓談をしました。あれはミステリーの作家になって、最も幸福を感じた時間でした。鮎川先生の諸作への論評はいつも穏やかで、愛情に満ちていて、先生がいかにこの時代を愛していたか、そしてこの時代の本格作品を慈しみ、懐かしく思っていたかが痛いほどに感じられました。
アンソロジーに収録するため、その雰囲気のまま録音してしまい、対談にしてしまったこともあります。鮎川先生は対談嫌いで通っていましたが、綾辻さん登場のこの時期、平成本格の興隆期にあたっていましたから、先生も大変喜んでいらして、対談嫌いが嘘のように、お口も滑らかでした。本当に対談嫌いなのか、どうしてそのように受け取られているのか、少々不思議な感じがしました。
あれはもう10年も前のことになるでしようか。私が存じ上げる限りでは、あの時期の鮎川先生が、最も愉快そうであり、最も嬉しそうに見えました。しかし対談が進むにつれ、どうして鮎川先生が対談嫌いと周囲に思われたのか、それはつまり対談の仕事をあまりお受けにならなかったからでしょうが、何故お受けにならなかったかが、私にはだんだんに拝察されてきました。
対談に出た話で面白かったもの、思い出せる限りお話してみます。たとえば「落石」の狩久さんの思い出。狩さんは大変数学的な頭をしていらして、三度の飯より方程式を解くのが好きだったとか、短編のストック用のタンスを作っていて、30枚もの、40枚もの、50枚もの、60枚ものと未発表原稿を分類して抽斗に入れ、たとえば40枚の注文が来たら、40枚のところを開けて、「はい40枚ね」、と編集者に渡していたというような伝説があります。私が聞いていたこういうエピソードを先生にお話して、これは本当ですかと尋ねたら、「見たことはないけど本当です」、と言われました。
狩さんはSRの会の東京支部長をしていて、大変社交家で、大勢の若手作家が彼の家に集まっていたこと、その中には梶龍雄さんとか、藤雪夫さんなどがいらしたということ、鮎川先生も当時ひまだったので、よく狩さんの家に入り浸っていた。しかし狩さんはお姉さんが日本舞踊のお師匠さんだったので、家の二階にちょっとした舞台があり、みないつもここにすわってだべっていたのだが、せっかく舞台があるのだから、ここでみんなで推理劇をやろうと狩さんが言い出し、脚本を書き始めた。これはヤバいと思った鮎川先生は、それまで一日も欠かさず集まりに出ていたのだが、以降ただの1回も行っていないそうです。
あるいは乱歩さんの家に原稿を届けにいかなくてはならなかった時、そんな内気の鮎川先生なので、大乱歩さんに逢うのは恐縮なので、まだ眠っていらっしゃるだろう早朝にこっそり届けに行ったら、乱歩さんが無理に起きてきて、よけいに恐縮してしまったという話。その時に、乱歩さんがうがいをするがらがらという音を聞いた。乱歩さんのうがいの音を聞いた推理作家は、自分くらいであろうと自慢されていました。
  しかしそういう鮎川先生ですが、対談の途中、こんなことも言われました。「清張さん以降の社会派の作家の作品を、最近また読んでみようと思っています、しかしあれは本屋に並んでいるのですか?」と問われた。つまり、本格ものを暴力的なまでに駆逐し、一斉を風靡した社会派も、今はもう作品は消えてしまっているではないか、ということを言われたわけです。
また、「自分は『清張以後』という宣伝コピーが、今もってジンマシンが出るくらいに嫌いです」とも言われました。これらは、穏やかな人の言葉だけに、私には今も強烈な印象になって残っています。先生は、こうも言われた。この無思慮で無分別な風潮の中で、「自分は歯を食いしばって本格を書いた。しかし抵抗は空しかった。もう自分や高木さん、土屋さんで、日本の本格の命運は尽きるであろうと覚悟しました」。狩さんや乱歩さんの話をされている時とはがらりと語調が変わり、鮎川先生が、今日に至るも、この時代を作った人々の不人情を許してはいないことがはっきりと見て取れました。
解ったことは、これが鮎川先生を対談嫌いにしたのだということです。鮎川先生は大変穏やかな紳士ですが、実直です。対談になるとどうしてもこのこと、社会派の台頭はいいが、これに軽々に迎合して本格作家に辛く当たった周辺の人たちへの苦情を、言わずにすまない、つい口をついて出てしまうこの憤りをみなに見せたくなくて、先生は対談の席から遠ざかったのだろうということです。
このことは、私に多くを考えさせました。今本格の再興期にあたっていて、こういう時代を鮎川先生にお見せできたことは喜びでしたが、今また文壇は社会派に不人情になっているかもしれず、この点にわれわれは大いに考慮し、慎重になるべきと思います。過去から学び、避けるべき過ちは避けなくてはなりません。鮎川先生が味あわれた種類の悲しみを、今後はどんな推理作家にも、味あわせるべきではないでしょう。
鮎川先生の言葉で忘れられないものはいろいろありますが、鎌倉での鮎川賞の最後の選考会のあと、駅前のルノアールに寄ったのですが、この時に奥さんが迎えにこられたので、私は、「あれ、鮎川先生、こんな美人の奥さんがいたんですか? ずるいな」と言いそうになりました。言いませんでしたけれどもね。すると別れ際、鮎川先生は、私に向かってこう言われた。「私はしばらく奥さんがいない時期がありましたが、今考えると、あれは大損した気がしますよ」。奥さんは、きっとそれだけの方であったのだと思います。
もうひとつ、はっきりと憶えている言葉があります。どこのレストランでだったかはもう忘れましたが、先生は私にこう言われた。「これは酔ってしまって今うっかり言うのですがね、あなたが前半を書き、私が後半を引きとって書く本格の短編を、是非一度やってみたいものですね」。
これを実現しておかなかったことが、今大いに悔やまれます。まだまだお元気と、こちらが独り決めしていたことが大変に残念であり、うかつなことでした。しかしこうして今鎌倉の地に立つと、気づくことがあります。鮎川先生は、あの言葉に別の意味を込めたのではないかということです。照れ屋の先生は、こんな言葉により、「本格の再興に尽力してくれてありがとう」と、私に礼を言われたのだと思う。鮎川先生はそういう人でした。ご冥福を祈りたいと思います。

奥さんはそれだけの方であったと言ったあたりで、遺族席から拍手が湧いた。
(続く)
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