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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第138回
島田荘司のデジカメ日記
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11−16(土)、鮎川先生を偲ぶ会で、鎌倉を歩く。
鮎川先生を偲ぶ会が、鎌倉の中華レストランニ楽荘で行われることになり、鮎川先生を知る人、お世話になった作家、担当を経験した編集者や編集長たちが、鎌倉に集まることになった。そして、食事の前に山歩きをしようということになり、その余裕のある人は昼過ぎに集合となった。
生前の鮎川先生は、鎌倉の散歩を大変好んでいて、先生を訪ねたことのある人は、たいていこの散歩もご一緒する経験を持つ。ぼくもそうだった。ぼくの場合、立風書房で鮎川先生と2人でアンソロジーを編んだ際、たびたび鎌倉を訪れて、一緒に歩かせてもらった。そこで、この山歩きの時点から参加することにした。
提示されたコースには、AとBの2ルートがあり、Bは極楽寺からスタートし、かなり距離を行く。これは極楽寺駅前から、まずは鮎川先生の旧宅の前を通り、小町通りまで延々と山道を歩く。終点はニ楽荘になっている。旧宅というのは、鮎川先生が亡くなられたのはこの家ではない。もうだいぶ前から、先生は駅に近いマンションに越されていた。
昔一緒に歩いた頃、先生はまだこのお宅にお住まいだったと思う。このお宅の前は通った記憶があり、こちらへの参加も誘惑だったのだが、これは集合時間が早い。吉祥寺から出向く者にはちょっときついので、Aの短いコースの方にした。Aの方は鎌倉駅の西口集合で、こちらも終点はニ楽荘になる。
ぼくは例によって、光文社のA井編集者と2人、鎌倉に向かった。今は鎌倉も東京から近くなり、新宿から直接1本の電車で行けるようになった。しかしこれはタイミングが幸運でなくてはならず、この日は途中で乗り替えることになった。しかし鎌倉駅に着いたのは、集合時間にまだ小1時間もある頃合いだったから、駅前の喫茶店に入って時間を潰した。
定刻に店を出、駅に行ってみると、白川さんや、宇山さん夫妻の姿が見えた。戸川さん、井垣さん、辻真先さん、西澤保彦さん、芦辺拓さんなどの顔ぶれが揃っていたので、戸川さんの案内で出発する。総勢20人もいたろうか。佐助稲荷、銭洗弁天などを通り、綾辻さんも一緒に観た、古い西洋館の前に戻ってくる。こちらは割合手ごろなコースだ。
この西洋館が鮎川先生は特に気に入っていて、一緒に歩いた人は、たいていここを見せられている。綾辻さんが一緒の時には、「綾辻さん、あなた、これを次の館シリーズの舞台にしたらいいですよ」という言葉とともに紹介されていた。これがおそらく、彼の「時計館の殺人」になった。
ぼくの記憶では、白塗りの瀟洒な屋敷で、たぶん金属の柵が巡り、道からかなり奥まった位置にあった。いや、そのように思っていた。この時の鮎川先生の、ちょっとかすれたふうの、しかし含羞のもの柔らかな口調が、まだはっきりと耳の底にある。この時、確か立風書房の稲見編集者もいて、彼が記念写真を撮ってくれ、この写真が、先日ぼくが書いた追悼文とともに毎日新聞に載っていた。
ところが、鮎川先生の声ははっきりと耳に残っているのに、この十年ほどで、西洋館の位置が不明になった。この散策に参加した目的に、この建物の位置を思い出したいということもある。

春の桜の頃も、ご一緒に歩いた記憶がある。陽射しがよく、ところどころに桜を観たような記憶だ。この春の時かどうかは忘れたが、江ノ島まで延々と歩き、島に入ったら、さらに石段をあがって高台を延々と行く。そうして海を見降ろせる和風のレストランに入って、和食を食べたようなおぼろな記憶もある。まあもう十年以上も前のことだから、確かなものではないのだが。
途中で1回デニーズに入ったと思う。が、この時の休憩はたぶんそれだけだった。江ノ島の時も綾辻氏はいたが、一番若い彼が途中で根をあげ、「あー、足が痛いよ」などと言っていた。鮎川先生は一言も弱音は吐かず、江ノ島の石段にかかってから、途中の踊り場で2度3度、静かに足の屈伸運動をされていた様子をはっきりと憶えている。
散歩道の途中には、けっこう車の行き来が激しい場所もあり、こういうところではわれわれは会話をあきらめ、1列にならなくてはならなかった。散歩の途中、鮎川先生がかけてくださった言葉で憶えているものは、「あなたも、もうそろそろ鎌倉に住めるでしょう、越してきたらいかがですか?」というものがあった。鮎川先生の気分としては、作家は、一人前になったらみんな鎌倉に住むものという思いがあったのではないか。鎌倉は好きだったから、ぼくは「はあそうですね」と言って、しばらく真剣に考えた。ちょうど坂道で、その時ぐるりを見廻したら、高台に建つ居心地のよさそうな家が、何軒か目に入った。
あんな家もいいなとは思ったが、なんとはなく、ここは自分などが住む場所ではないような気がした。土地から、かすかな拒絶感も感じた。それは、たとえば田園調布とか、成城学園から感じるような類のものだ。自分はまともな、というか正当派の作家では到底ないような心地がしたし、またその頃はポルシェなど、自動車に血道をあげていたから、友人のメカニックの工場から遠のくのは不安だった。好きな車はたいていヒストリック・カーで、定期的なメンテナンスなしでは、到底乗れるような車ではなかった。

宇山さんと歩きながら、彼が主宰の今度の書き下ろしシリーズの話をした。シリーズの名称は、「ミステリー・ランド」と決まったそうだ。赤坂の中華料理屋で執筆を依頼されてから、もうずいぶんと時間が経った。途中、宇山さんが激越性の鬱病で倒れ、入院するという事件もあった。宇山さんは、会話の調子がほぼ以前通りに回復した。この様子は、見ていると回復の感じも含め、脳梗塞の場合と似ている。
鬱病のことは最近よく考える。これはいずれ別所で述べたいが、脳梗塞と似るのも道理で、脳梗塞は、脳出血もそうだが、要するに血管の障害である。これは秋田県に多い。秋田県人は塩分の摂りすぎと、アルコール分の摂りすぎでも全国的に知られる。老人をはじめとする自殺を含め、これらのどれもが日本一といわれる。この謎を、このところ毎日考えている。
日本の塩は、72年の塩田完廃以降、イオン交換膜法による99%塩化ナトリウムという過精製塩になった。これも最近問題だとして指摘される。これはミネラル分全排除の塩で、もともとは食用に適さない。そこで、専売公社はこれにミネラル分を人工添加して売っている。これは、日本だけにあるといってもよい塩で、これの摂りすぎによる血管障害→脳卒中→ニューロン・ネットワークの障害→鬱病発病→自殺、という連鎖が考慮される。脳卒中の患者は、回復すると多く鬱病が出る。
血管障害とは、要するに血管が脆くなる病だから、その結果破れたら脳出血、内壁の破片等が脳にあがって血管細部に詰まれば脳梗塞である。総称すれば脳卒中だ。だから熟年性の鬱病の一部も、熟年性の脳梗塞も、同じ原因で起こると考えられる。途中からろれつが激しく廻らなくなるほどの酔っ払いは、脳卒中の初期的症状を起こしていることが疑えるから、酒飲みで、よくこういう現象を披露していた宇山さんには、何度も卒中を警告していた。しかし彼の場合卒中でなく、いきなり鬱病が出た。これはA井さんも注意しなくてはならない。

Bコースもけっこう厳しい道のりだった。途中には、舗装ができず、泥や木の根が露出した急坂もあり、しかもこれが塗れていたから、けっこう危なかった。
西洋館はまだ残っていた。鎌倉駅付近の、大型の踏み切りを渡ったらすぐだった。ところが、目の前にしてすっかり驚いた。記憶の中の西洋館とはまるで違って、道のすぐそばだったからだ。人間の記憶はあてにならないものだ。これでは庭園と呼べるほどの広い庭は作れない。もう金属柵もなくなって、粗末な板塀で囲われている。鮎川先生や綾辻氏と観た頃には、それでも白いペンキ塗りの瀟洒な館という印象だったが、全体に塗装が剥げ落ち、グレーの家になってしまって、もはやまったくの廃墟だ。今では鳩ばかりが住んでいるという。
それにしても、こんなに道路から近かったか。おまけに踏みきりのすぐ手前なので、しょっちゅう車が渋滞して、道路越しに眺めるのを邪魔される。こんなにせわしない場所だったとは意外だ。しかしせっかくだから、みなで館の前に整列し、記念写真を撮った。
それからぞろぞろ歩き出し、終点のニ楽荘の前に出た。
(続く)
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