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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第134回
島田荘司のデジカメ日記
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8−24(土)、日本橋、長崎屋跡。
中央区の日本橋に、長崎屋跡地を観にいった。長崎屋というのは、徳川将軍に謁見のために定期的にのぼってきていた、長崎出島のオランダ商館員一行が宿泊するための専用の宿で、お江戸日本橋のたもとにあったといわれる。要するに異人(外国人)専用の宿泊施設だったということだが、当時徳川幕府はオランダ1国(VOC1社)とのみ独占貿易の契約を結んでいて、それ以外の欧州諸国との交易は違法としていたので(これが鎖国と称され、今日の誤解となっている)、結果としてこの宿屋は、オランダ人の専用ホテルということになった。
江戸時代、幕府はオランダ人を「出島」という人工島に押し込め、外国人のみならず、日本人の島への出入りも厳重に監視下においた。しかしこれは、実は長崎のオランダ商人だけに適用された統治法ではなく、幾度か説明してきている通り、横浜の一部を人工島化して「関内」と称し、外国人居留地にしたこともそうだし、「京都御所」という囲いの中に天皇と公家たちを押し込めて出入りを監視し、学問を徹底奨励したことも、この方法の範疇といえる。オランダ商人の場合はそれだけでは安心できず、オランダ商館長以下、館員を4年に一度上京させ、欧州の国際情勢、植民地の状態、キリスト教の布教状況、貿易の内容、などを細かく報告させた。この情報提供は、オランダに独占貿易を許す際の、幕府側からの条件だった。オランダ側はこれに応え、自由貿易をしていると同等量の情報を入れることを、幕府に確約した。
4年に1度の上京と将軍謁見は、1788年から5年に1度と改められる。上京には大変な費用がかかるから、このあたりの事情が斟酌されたものとも思われるし、オランダ人は天草四郎の反乱時にキリスト教軍の拠点を艦砲射撃したり、日光東照宮に残る逆さ葵の回り灯篭等の貢物をよくしたり、マカオ貿易のトラブルの際には、高地位にあったオランダ人を下手人として幕府に差し出したりと、日本側に大いに忠誠を示していたから、幕府が彼らを信用したともとれる。
謁見の旅の模様は、シーボルト随行時のものが最も有名で、この際の記録や、シーボルトが江戸や日本各地から持ち帰った品々は、今日まで割合状態よくドイツ国内に保存されている。何故オランダでなくドイツかというと、シーボルトはドイツ人だったからだ。彼は日本に大いに興味を持ち、研究のためにオランダ人と偽って入国したが、言葉を不審がられ、しかし日本の役人にドイツ人、オランダ人の区別はつかなかったから、「山オランダ人」と称して通した。
彼は医者だったから、進んだ西洋医学を伝えるなどして、日本に大いに益をなした。しかし離日時には日本列島の詳細な地図や、大量に描かせていた日本の武具の絵などを持ち出そうとした。今となってはこれらは貴重な日本資料となったわけだが、当時はわが国運を危うくするご禁制の品々で、これらを積んでいた彼の船が、折悪しく襲来した台風で難破したため、すっかり発覚した。シーボルトはスパイ行為を疑われ、親しくしていた日本の武士が処罰されたりもした。
ともかくシーボルトは、オランダ商館員の江戸参府という、日本観察の絶好の機会を逃さず、図録作製のために絵描きを雇い、自身も随行員として江戸まで旅をした。そして道中で出会うさまざまなもの、海女とか、潜水夫、雑多の職業人、行商人、芸能人、茶店の者たちをこまかく彩色画に描かせた。彼のこの仕事も、今日の江戸研究にずいぶん貢献した。
シーボルトの一行は、1826年2月10日頃に長崎を発ち、約2ヶ月を費やして、4月10日に江戸に到着している。そうして38日間江戸に滞在してから、5月18日に江戸を去っている。この点から、季候のよい4、5月頃に、将軍謁見のオランダ人一行が江戸に滞在することが、慣習と化していた可能性はある。しかし、正確なところはもうよく解らない。
オランダ人の江戸参府に関しては、基本的には当時オランダ商館長がつけていた「オランダ商館日誌」というものしか、信頼できる資料がない。しかしこのオランダ商館日誌というものは、1633年8月以前のかなりの部分と、1834年から1841年にいたる大部分が失われている。これははっきりとした散逸部分で、それ以外にもあちらこちらが散逸、歯抜けとなっているようだ。日誌は現在、オランダのハーグ国立中央文書館にあるが、写しは世界各地にある。一部は東京大学にもあって、現在翻訳が進められていると聞く。これまでに翻訳が成されている部分は、ざっと1627年から1654年までの多くの部分。そして1800年11月以降1834年まで、というふうに聞いている。
この間の江戸には、実は魅力的な事件がいくつかあり、これとこの日誌とを重ねて推理する発想は、面白い仕事と思っている。ここではそれまでは述べないが、ぼくはずっとオランダ商館日誌の、空白の150年間に興味を持ってきた。しかし、細部がどうにもよく解らない。ごく基本的な部分での矛盾もある。たとえば1803年に参府があったことが、オランダ商館日誌から確かめられている。4年ごとの参府が、5年ごとに変化した年は1788年といわれる。すると以降の参府は、88年、93年、98年、1803年、8年、13年、18年、23年、28年となるはずだ。ところが、シーボルトが江戸に滞在したのは1826年と、これはすでにはっきりしている。1828年ではない。また1803年の参府は、実際には1802年という説もあるようで、どうもこのあたり、まだ今後の研究を待たなくてはならないようだ。
日本橋のたもとにあった長崎屋は、「江戸の出島」といわれ、オランダ人の上京時には、江戸在住の学者、文化人たちが競って会いにきた。会見がかなわなければ長崎屋の窓の下に群がり、習いたてのオランダ語で質問して、最新の情報を得ようとした。参府の際、将軍に謁見のため、彼らが長崎屋から江戸城に出向いたことはあきらかだが、その行き帰り、あるいは長崎屋投宿中、どのような行動をしたかは不明である。彼らは日本人とは外見も、衣服も違う。当時のことで、出歩けば当然人だかりになる。そう気軽にあちこちに行けたとは思われない。歌舞伎の見物程度はできたと思われる。しかし吉原ともなると、上がるのはむろんのこと、見学もできなかったと思われる。幕末の黒船来航の頃、異人たちが上陸してきて、もしかして遊びにくるかもしれないというので、品川遊郭の花魁たちが玄関にバリケードを積んで身を守ろうとしたという話がある。商館員の江戸参府は、黒船の乗り組み員とは事情が違うが、当時の異人たちは、それほどに警戒され、恐れられていた。

ともかく、長崎屋跡地を探してみるべく日本橋に行った。お江戸日本橋は今高速道路の下になっていて、陽が当たらない。このことは、かつての都市論ブームの頃、ずいぶん象徴的に語られた。「江戸有数の文化遺産の上に高速道路を通した木っ端役人のセンスにはあきれ返る」の類の怒りをよく目にしたが、これは公平に見て、あまり当を得ていない。いかに日本型のお役人でも、お江戸日本橋の上に好んで高速道路を通したい役人はいなかったろう。公共利益のために自分の土地を提供する発想を持ち得ない、日本人一般の特殊な道徳観に対して立腹をすべきで、高速道路の用地は、当時どう頑張っても川の上以外にはなかった。みなが自分の土地を守るため、江戸時代の道徳観を引っ張ってきて自動車を軽佻浮薄な公害の元と規定し、道徳を盾にストーリーを組んで、協力を拒絶したからだ。このわが伝統は、庶民各自に自動車が行き渡った今も、まったく変わらずに続いている。こういう思考のツイストができる国民は、先進国では日本人だけといっていい。
アメリカは、日本と違って民主的な国だが、家が道路の用地にあたれば「残念でした」で終わりで、居座り抵抗は許されない。民主の優先順位が厳に決まっている。日本人がこの居座りという身勝手を正義と確信できるのは、日本の歴史が土地争いであったというDNAの刻印、自動車を成金たちの不道徳とした軍国国策の刷り込み、すべてが禁止という国策からくる、優先順位発想の欠如、そして早い話が人情が悪いからである。近所づき合いの辛抱努力でようやく今日の立場を築いたのに、これから新しい土地に行って村八分の陰口受難から再スタートし、今と同等の地位にのぼるまでの気の遠くなる苦行をみなが思うからである。日本橋の上の高速道路を見て、ただ役人のせいとのみ確信できる上位者型カラ威張り(つまりは洞察力の大幅減退)体質が、この国の儒教型人情、ひいては自殺道徳社会の原因である。
とはいえ、日本橋の上に青空を取り戻すことは必要と思う。ぼくはここの部分は、高速道路を川の下にもぐらせるのがいいと考えている。かつてのバブルの時代、このような改善のチャンスはあったのだが、強烈道徳型の国民にはどうしてもそういう発想が現れず、銀座の女の子たちに百万円単位でバラ巻いたり、竹やぶに一億円ほど捨てたりして、簡単に時期を逸してしまった。
長崎屋は日本橋のたもとというふうに聞いていて、来ればすぐ見つかるものかと楽観していたが、事態はそう簡単ではなかった。周辺をさんざんに歩いても、どこにも長崎屋の痕跡などない。交番で訊いてもみたが、やはり知らない。コンビニで訊いても、若い店員は当然知らない。そこで老舗ふうの呉服屋で訊いたが、「なんだか聞いたことあるなぁ」という程度の反応だった。土地の人たちも、この文化遺産にはまったく関心を持っていない。
ずいぶん探して、ようやく見つけた。日本橋から中央大通りを神田方向、つまり北方に500メートルほど遠ざかった右手にあった。これはもうたもととはいえない。この言い方も、どうやら慣習的な誤用になっている。みんな、実際には見ないで言っているのだ。今これは、新日本橋地下駅からの出口部分になっていた。出口脇の石の壁に、「長崎屋跡」の表示バネルがかかっていて、これには有名な、長崎屋の窓下に群がる庶民の浮世絵が印刷されている。そして絵の脇に、簡単な由来が説明されていた。
この異人宿に興味をもって以降、けっこう長い時間が過ぎ、ようやくやってきて探し当てた。なかなかの感慨はあったのだが、地下にくだる駅の階段に命中していて、ずいぶんと味気ない様子だ。江戸中の文化人がやってきてたむろした窓の下は、江戸通りの舗道になっている。こうして貴重な文化遺産は風化していくが、パネル表示があったことはありがたい。これがなければたぶん解らなかった。最近かけられたものらしいが、「木っ端役人」とやらも、この貴重な歴史の遺産を忘れてはいなかった。
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