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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第132回
島田荘司のデジカメ日記
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島田荘司のデジカメ日記
8−19(月)、日光散策。
思い立って、雨模様の中、車を飛ばして日光に行った。すっ飛べば、日光は意外に近い。
日光に行ったのには、いろいろと理由がある。この地の呪術的な意味合いに、以前から興味があった。徳川の時代、この地は江戸を北方から鎮護する使命を持っていた。そういう霊的な、いってみればサイキック軍事としての首都防衛設計をしたのは、以前に上野東照宮の時に話したが、間違いなく天海という、将軍お気に入りの怪僧である。日光とはいったい何であったのか。これは謎だ。ちょっとばかり歩いたくらいで謎は解けまいが、インスピレーションくらいは得られるかもしれない。
もうひとつは、「吉敷竹史の肖像」の取材のためだ。この本に、「吉敷竹史、18歳の肖像」という短編を書くつもりでいる。これには実体験の一部、以前にこの日光の地で経験した、ちょっとした感動を再現したいと思っている。しかし、日光のどこでそれが起こったものか、もう思い出せない。もう一度歩き、その場所を突きとめて、できることなら追体験をしたかった。
さらには、オランダと徳川幕府との友情の証、正確にはまあVOCの経営戦略なのだが、それがこの地にまだ遺っている。これも眺めて考えたいことがあった。

日光という霊地は、天海や家光が拓いたわけではない。古くは奈良朝の頃、勝道上人という僧侶が、四本龍寺、のちの輪王寺という寺を開いて、これが日光の開祖とされる。勝道は、補陀落信仰から男体山を二荒(ふたら)山と呼び替え、この二荒を「ニコウ」と音読みして、これが日光の語源になったといわれる。平安朝に入ると四本龍寺に坂上田村麻呂が祈願し、さらには鎌倉幕府の頼朝、実朝が、この寺に帰依して深い信仰心をしめした。
以前にお話したことだが、武都鎌倉から、この日光廟は正確に真北、すなわち北極星の方角にあたる。これは何故か。江戸から見ると真北ではないが、ほぼ北であり、正確には北西の方向にあたる。江戸城と男体山を結ぶ直線、日光廟と鶴岡八幡宮とを結ぶ直線が交わる場所には、唐沢山神社というものがある。この神社も、なかなか意味がありそうだ。
輪王寺の常行堂では摩多羅(マタラ)神というものが信仰されており、ここに祭られる神は、源頼朝ということになっている。摩多羅神とは何か。これは仏経典には見えない日本に独特の神で、時に八幡神ともなって現われるが、音からタタラとか鍛冶に通じると思われ、金属全般をさすという説がある。このことは実に意味深で、軍事上の意味合いが考えられる。鉄を押さえる者が軍事上上位に立つという戦略上の観点からだ。
タタラの一族とは、例の「士農工商」という日本人の秩序からははみ出た存在で、独特の地位を獲得していた。時の為政者とも直接接する資格を持ち、徳川家康などは、タタラ業者に「山例五十三箇条」という特例を与えて保護、関所もフリーパスとしたといわれる。中世までは民に神としてあがめられ、恐れられ、やがては反動から、芸能者とか被差別民と同様、差別されるようにもなっていく。これも、室町以降の日本においては、宗教が軍事要請に取り込まれていた証といえる。ともかくタタラ、八幡、頼朝、鎌倉、これらは同一のライン上に位置する存在である可能性がある。
日光東照宮だが、ここの輪王寺に源頼朝が祭られるようになったのは明治以降のことで、もともとこの地に聖者として祭られているのは三人のみ、徳川家康、家光、そして天海である。家康は、陽明門を入った東照宮の裏手の公墓に葬られ、家光はその西、大しゅう院の奥の院に公墓がある。天海はその南、常行堂から入った慈眼堂に墓所がある。
家康の遺骸は、日光開廟にあたって静岡の久能山東照宮から移されたが、この久能山の廟社は、ぴたりと日光を向いて建てられている。これもまた、天海の思惑である。

霧雨の中、傘をさして陽明門までぶらぶら行った。小雨の中に現われた陽明門は、また格別の新鮮さがあり、見事なものであった。木造の建造物が、三百年もの長きにわたって風雪に堪え、よくもまあこれほどきらびやかに遺ったものと感心する。一見すれば、ほんの数年前に造られたというふうだ。門の中にすわる一対の木造も、古いマネキン人形程度には新しく見える。思えば小学校の修学旅行ではじめてここに来て以来、ぼくは世界中を旅した。世界のあれこれを観て廻り、この風情とあでやかさを、世界第1級のものであることをもう充分に認識した。
陽明門は、石段の上にある。くぐるには、石段をあがらなくてはならない。この石段の左手前に、「オランダ灯篭」というものがある。これは寛永20年、1643年にオランダから奉納されたもので、おそらくオランダで造られ、船で日本まで運ばれたのであろう。写真などない時代のことだから、灯篭に印されたアオイの紋章が、デザイナーの誤解ですべて逆さになっている。そこで、「逆さあおいの回り灯篭」とも呼ばれる。
中心に軸柱があり、篭の中の灯篭が、これを中心にゆっくりと回転する。電気やモーターがあった時代ではないから、もしもそれが手動でないならだが、動力は灯篭から昇る熱気によっているものかと思ってきた。が、眺めるだけでは、どうにもこれは解らなかった。
日本人の当時の感覚では、この灯篭はオランダ国の幕府への忠誠心という解釈になったろう。しかしこれは、東インド会社VOC一社の経営上の思惑と考える方がいい。鎖国も、実際のところこの会社の伝統的な経営戦略、一社独占貿易主義というものの産物で、幕府としても、家光の時代には少なくとも、国の門をすっかり閉じたつもりはなかった。そこまでの意識はなく、要はキリスト教に向かって閉じたのだ。
一方は独占して儲けたい、もう一方はキリスト教だけは入れたくないということで、これは両者の利害が一致した結果にすぎない。江戸の頃、朝鮮の使節などは定期的に日本に来ていたわけだし、鎖国という言葉はあまり適当ではないとぼくなどは思っている。すべての誤解のもとは、家光自身が「鎖国」という言葉を文書の中で用いたためだが、後世の為政者は、完全にそういう意識になってしまった。

霊所という言葉は何やら恐ろしげだが、霧雨でしっとりと湿った日光は、気分がなかなかに落ち着く。三猿や、鳴き龍を観てから、車で華厳の滝に行った。この頃雨がまた強くなり、エレヴェーターで滝壷に降り、滝に向かって濡れた地下道を行く時は、夏なのに震えがくるほどに寒かった。
展望台に出てみると、視野一面は霧雨が真白く舞うばかりで、当分の間何も見えない。ひたすら轟音がするばかりの真白い世界だったが、山から時おり風が吹き降り、霧雨の裾を払うと、太い水の柱がちらと見える。
展望台のみやげ物屋で、藤村操の絵葉書を買った。藤村操とは、明治36年にこの華厳の滝に飛び込んで死んだ人物で、当時18歳、世のエリートたる一高の学生だった。「華厳の感」という有名な美文を付近の松の幹に書きつけており、世間に衝撃を与えた。以下のような文面だ。
「悠々たる哉天壌、遼々たるや古今、五尺の小躯をもって此大をはからんとす。ホレーショの哲学、竟に何等のオーソリティを価するものぞ。万有真相はただ一言にしてひっす。曰く『不可解』。我この恨を懐いて煩悶、終に死を決するに至る。既に厳頭に立つに及んで、胸中なんらの不安あるなし。
はじめて知る、大なる悲観は、大なる楽観に一致するを。 明治三十六年六月二十八日大朝記載」
華厳とは、仏教の大哲理から採った言葉なので、この美辞麗句もまた、ある種必然めいた感覚を伴う。今日の自殺ブームの先駆けのような人物であり事件で、そう考えればここにも、世界第一の自殺王国、ニッポンの謎を解くキーが潜むかもしれない。この英雄主義的な美文には、誇りの心性こそあれ、失意や悲惨は微塵も感じられない。このようにして彼は、自死を生涯最大級の輝きに飾り得た。

それから戦場ヶ原に行ってみた。というのは、もうだいぶ昔のことになるが、この日光の地のどこかで、みやげ物屋の鴨居から下がった宮沢賢治の有名な詩、「雨ニモ負ケズ」を見て、いたくうたれた記憶があったからだ。これが、おそらくは戦場ヶ原であったろうと見当をつけた。
それまでぼくは、この詩があまり好きではなかった。それはおそらくは現国の教科書に載っていたためで、よいものか否か、好きになるか否かを考える時間が与えられず、高級至上のものとして、同調を強要されたためと思う。だからあの片仮名を見るたび、拒否感ばかりが来て馴染めなかった。しかし何気なく入った、この地のどこかのみやげ物屋で、ふとこの文句が浮き彫りにされた額を見つけ、立ち尽くすほどに衝撃を受けた。
この詩のよさが、その時突然に解ったからだが、その時何故解ったのかは、もうよく解らない。たぶん旅情とか、そういった気分が手伝ったせいだろう。あの様子を小説化するにあたり、もう一度あれを体験したかった。たとえそうでなくとも、せめてどこであったのか場所くらい知りたい。日光の駅前だの、東照宮の中であったとは思わない。華厳の滝かとも思ったが、さっき行ってみたら違った。そうなら、おそらく戦場ヶ原のみやげ物屋だったのではないかと考え、戦場ヶ原に向かった。
戦場ヶ原周辺は、緑の平野のただ中に広々としてひらけ、みやげ物屋やレストランの集落は、大きな駐車場をともなっている。展望台からの戦場ヶ原の眺めは、広大な緑がすっかり雨に濡れて綺麗だったが、どれもどこか記憶と違った。並んだみやげ物屋を端から端まで歩いたが、記憶は戻らない。こんな場所ではなかったという心地が絶えずした。「雨ニモ負ケズ」の額を探してもみたが、なかった。
それでもうすっかり解らなくなった。ここ以外にはないと思っていたから、あとはもう帰路があるばかりだ。しばらく思案したが、これはもう永遠に記憶が失われたものと判断して、東京に戻ることにした。

中禅寺湖に向かって走っていたら、「竜頭の滝」という案内標識が目に入った。気乗りはしなかったが、一応寄ってみることにして、車を駐車場に入れた。
車を出、傘をさして歩いていったら、どこか懐かしい思いが来る。オレンジ色のタイルを敷いた、濡れた坂を前にすると、かすかに記憶が戻る。あがりきるとみやげ物屋があり、脇の暗がりを通して、滝の音が聞こえた。
そして、思い出した。ここだった。そうだ、この滝の音だったと思った。音なのだ。この水音がぼくに「雨ニモ負ケズ」の文句を、まるで別の、劇的なものに見せた。
滝の前に出るには、みやげ物屋の薄暗がりを、トンネルのように抜けなくてはならない。この暗い通路のどこかに、ぼくは宮沢賢治の額が下がっているのを見たのだ。とうとう思い出した。
竜頭の滝を見降ろすテラスには、華厳の滝以上の観光客がいた。この滝は、言ってみれば岩場の急流程度のもので、華厳の滝ほどの派手さはない。知名度もそれほどではない。しかし盆栽を観るようなこじんまりとした風情があり、テラスから滝の景観が、うまく鼻先にまとまってひらけるのだ。
いっとき滝を観てから、すぐにみやげ物屋に戻り、滝の音の中で「雨ニモ負ケズ」を探した。しかし、すみからすみまで店内を歩いたが、あの額はもうなかった。
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