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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第130回
島田荘司のデジカメ日記
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8−8(木)、浅草、陣内屋界隈。
浅草についてはもう何度も書いているが、いくらでも書くことがあるのがこの街の魅力だ。
ここはぼくにとっては横浜に似た位置付けで、車で首都高に乗った場合、一番端まで行けばそこは上野、そしてこの浅草ということになる。だからついついこの街に足が向き、以前は夜になると、意味もなく桜橋の上に立ったものだ。そしてここでぼんやりしていたら、自然に「ギリシャの犬」ができた。
二子玉川方向に向かって第3京浜に乗れば、これは横浜、そのまま横浜新道に入れば鎌倉に着く。つまり、浅草、横浜、鎌倉、これらの街は高速道路の終点に位置する。
浅草はもうひとつ、地下鉄銀座線の終点でもある。四谷の立体交差の思い出は以前書いたが、もうひとつ渋谷もまた、子供にとっては魅力的な土地だった。何しろここでは、地下鉄が遥か頭上を走るのだ。渋谷という場所が巨大な窪地の故なのであろうが、これは子供心には不思議であり、スペクタクルだった。車庫から出た始発の地下鉄が、ガードの上を走って東急文化会館のビルの方向に入っていく。ここから電車は、横穴のようなトンネルに入り、銀座など都心の地下を貫いて浅草まで行く。そういうメトロポリスの構造が子供心にはなにやら魅力で、胸が踊った。思えばこれは、当時はまだビルが少なく、地形というものがよく目に入ったせいだろうか。
今でも地下鉄銀座線に乗るのは好きだ。渋谷のホームの右端に立っていると、カラの電車が渋谷の上空を通ってゆっくりとやってくるのが見える。ここからなら、まず間違いなくすわれる。乗り込んで本など読んでいると、原宿、新橋、銀座と進み、車内はどんどん混んでくる。しかしこちらはすわっているから苦痛はない。これらの人がやがてすいてきて、電車は上野に着き、さらにどっと人が降り、再びがらがらになって終点浅草に着く。こういう状況がなかなか好きだ。そしてここでも浅草は終着点にある。

浅草の街の魅力は、まるでディオラマかテーマ・パークの模擬店のような店が、未だに営業していることだ。裏通りにある鍋ものを食べさせるらしい店、オレンジ通りの1本東の道にある暮れ六つという居酒屋。どちらも軒が低く、頭をかがめないと中に入れない。まだ入ってはいないが、2軒ともが映画のセットのようで、ここで実際に商売が行われていることが不思議だ。
しかしバブル期を通過、余裕のできたわが国がテーマ・パークの時代に入って、ラーメン博物館だのカレー博物館、江戸深川資料館に日光江戸村、さらにはディズニーシーなどができてきて、浅草のこの江戸ふうの貴重さがあまり目立たなくなった。
花屋敷の界隈は、狭い路地裏が入り組んで、歩けば道端に発砲スチロールの箱に入った鉢植えの植物、夕餉の匂いがあたりに満ち満ちて、人の営みが路地裏いっぱいにある。赤瀬川原平さんなどが一時期よく言っていた、東京の不思議ものの発見、あるいは「老人力」の発見などに、ここは格好の舞台だ。
花屋敷は、子供の頃はこんなものかとも思っていたが、今見るとこれはずいぶん狭い。ヴァイキング・スウィングとかジェットコースターが、どうかすると道に飛び出してきそうだ。乱歩さん的世界で、どこかから小人が飛び出してきそうな印象というものもあるが、この魔法は夕刻のほんの一瞬だけだ。今は蛍光灯や水銀灯の明りが街に白々と満ちるから、何かしら様子が違った。乱歩さん的というより、これは寺山修司的男娼の世界で、乱歩さんは江戸の闇に近く、寺山さんは近代の白い光に近い。しかし寺山さんの世界はやはり、どちらかといえば新宿歌舞伎町であり、ここはまだ乱歩さんの街か。性的な猥雑さでは、浅草はもう瞬発力を失って、新宿にその座を譲った。
花屋敷の隣に「芳野屋」というものがある。これはずいぶん昔からある。これを以前「陣内屋」という店にして、御手洗短編の「舞踏病」の舞台にした。むろんこれそのものではなく、空想で補ったのだが。これも前を何度も通りかかっただけで、まだ中には入っていない。浅草にはそういう店が多い。看板にお食事と書いてあるが、たぶんおでんくらいだろう。これに、アルコールを出すということか。
この店の前は浅草寺公園の端っこにあたるが、以前にイヴェントがあり、浅草十二階のかなり大きな模型が実際にここに建った。付近には小さな池も作られた。十二階は、かつてひょうたん池という池のほとりに建っていたからだ。この時の十二階は、大きくはあったが、両国の江戸博物館内にあるような精密なものではなく、割合雑な造りだった。しかしこれを見ていて、ふいと「舞踏病」を思いついた。御手洗氏が浮浪者と酒盛りをしたり、靴のまま飛び込んで踊ったりするのが、この時のひょうたん池である。今はもうない。

夕刻の黄ばんだ光線がよく、五重塔がまるで絵葉書のように綺麗に浮き立った。浅草寺には、以前に中に入れてもらったことがある。思えばあれも御手洗会というものだった。同人誌の時代で、編集者や新本格系の作家だけでなく、同人漫画家が多く集まってくれた。五重塔にはあがれなかったが、この時この瓦がアルミニュウム製であることを住職から聞いて知った。町内から寄付を募り、瓦の1枚1枚には、寄付者の名前が入れられているのだという。千年後には、これもまた歴史考察の貴重な資料になるだろう。
公園の西側、浅草公園本通りに入ったら、振り売りがいた。芸が細かく、頭には町人の鬘をかぶっている。これはいよいよ町全体がテーマパーク化したらしい。浅草、野外歴史博物館というふうだ。
江戸の頃、八百八町には実際にこんな振り売りが大勢いた。商売道具一式を前後の箱に入れ、担いで運び、道端で商いをする。江戸は開拓地で、開拓地というのは、今でいうと格好よい喫茶店やブティックがなかったから、女性はなかなか来なかった。そこで街には独身男ばかりが多くなり、岡場所や吉原のような遊興施設が必要になったのだが、外食産業もまた必需だった。だからこういう振り売りが、繁華街にはずらりと並んだ。今のスカイラークのようなもので、独身男はこういうものを食べ歩いて満腹になっていた。
この界隈は浅草寺の借地で、明治、大正の頃は家が少なかった。現在は在日韓国人が多く住んでいる。これが面白いのだが、この一帯には韓国・北朝鮮の人たちが混在、共存している。格別諍いが多いという話も聞かない。いつの世も、政治家より庶民の方が賢い。
もっともこれはかつてのヴェトナム戦争の頃、韓国に帰化すればヴェトナムで死ぬ可能性があった。親米の韓国軍はヴェトナムに入り、勇猛をもって鳴っていた。当時在日は自分で国籍を選べたので、そういうことから当然北への帰化を望む人が多くなった。北がまだ社会主義のユートピア幻想の内にあった頃で、だから北朝鮮籍の在日がこの時期増えた。
いずれにしても、この街ではいち早く統一が成されている。もっか核問題、拉致問題で揺れる本家の半島も、早くそうなって欲しいものだ。
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