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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第128回
島田荘司のデジカメ日記
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7−25(木)、カレー屋デリーで宇山さんと会う
講談社文庫のM澤さんと、銀座のカレー屋、デリーに行く。M澤さんとメイルのやり取りをしているうちに、デジカメ日記登場の渋谷ムルギーの話になり、では今度の帰国のおり、東京の別のカレー屋さんに食事にいきましょうという話になった。
M澤さんは、カレーに関しては格別の通であるらしく、東京中の主だった本格的カレー屋を大半把握している。この日はそこで、彼女の推薦になる銀座のカレー、デリーで食事をということになった。この時、激越性鬱病とやらで入院していた宇山日出臣さんも誘うことにした。
宇山さんとは長いつき合いで、彼とはかつて、新本格のムーヴメントを興そうと頑張った。これが成功裏に立ち上がり、綾辻行人氏や麻耶雄嵩氏などを首尾よく世に出すことができたのは、むろん宇山氏や講談社の力だが、できる範囲でぼくも手伝わせてもらった。これはミステリーの作家としてすごした長い時間の内でも、特に充実した、満足できる思い出になっている。
あの頃は、3日とあげずに宇山さんと会っていた。いろいろと不人情な批判が、われわれを知らず僚友とか、戦友のような気分にさせていた。彼の「日出臣」という筆名……、ではない芸名……、でもない、通称名とでもいうべきか、も、ぼくがつけた。新本格の立役者としての彼は、ミステリー文壇で有名となり、下手な作家以上の通り方となったが、近頃鬱病で戦線を離脱、文三部長のポストもはずれて入院したと聞く。一度彼自身から葉書をもらい、「激越性という名称がなかなか気に入っております」、と冗談が書かれていたから多少安心はしていたが、どうなっているのか、顔を見なくては判断はできないと感じていた。退院して、講談社に出社してからの様子は、M澤さんに何度か報告を受けていた。だが、非常に気がかりなところだった。
デリーで待ってくれていた宇山さんは、すっかり元気になってはいたが、「やあ宇山さん、久しぶり!」、とこちらに能天気に話しかけさせない暗い病の気配が、この日はまだたっぷりと残っていた。髪がすっかり白くなっていて、姿勢も猫背気味に悪く、老人のようだった。何より、言葉のリズムがまるで以前と違う。宇山さんというのは、他者への配慮はある人物だが、どちらかというと毒舌で、ぽんぽんと余計なことまで喋る。その軽快なテンポが彼の持ち味だったが、それが今やすっかり影をひそめ、ゆっくり、ゆっくりと、重病の老人のように話した。その気配は、脳梗塞の回復者にも似て、元気な彼を知る者にはやはり異様であり、痛々しい気分を感じないではすまない。だからこちらも、やむなく自分でも異様に感じるくらいにゆっくりと話した。最近あったこと、その時にもらって持っていた、京極夏彦氏の作になる「魔人の遊戯」の表紙見本なども見せた。
病というものは不思議で、周囲の者の気分をも重く巻き込む。どんなに落ち込んだ者でも、こちらが明るく接して巻き込めばうまく行くと、そんなこちらのいつもの思い入れも無力にする威力があって、まあだからこそ「病」なのであろうが。
宇山さんは、A井さん以上の酔っ払いで、一緒に酒を飲んでいると、ある段階から突然言葉が消滅し、口からは変わらず音が出ているのに、意味がなくなる。こちらはそんな様子を冗談にして、以前はよく楽しんでいたが、ことがこうなっては、そんなことをしていた頃を後悔した。「あんなふうに酒を飲んでいたこととも関係があるのですか?」と訊いたら、「まあ多少は」、という返事である。
酒でろれつが廻らなくなる症状も、軽い脳梗塞の範疇と考えられるので、ぼくは脳梗塞に注意をと、口を酸っぱくして言った。これはほかならぬA井さんも、気をつけなくてはならない。それから宇山氏は煙草もかなり吸っていたから、やめた方がいいと何度も言ったら、「ではこれでもうきっぱりやめましょう、これは島田さんにお預けして……」と百円ライターと煙草の残りををぼくにくれた。何度もそれをやるので、ライターがずいぶん溜まった。「禁煙は簡単だ、私は百回もやった」と誰かが言っていたが、あれはまことに本当だ。しかし彼は脳梗塞ではなく、思いもかけない方向の病に罹った。しかしものは考えようで、これで脳梗塞が避けられたのなら、それこそは神の配慮であり、よしとしなくてはならない。
ともかく、デリーのカレーは本格的で大変うまかった。遠慮のない辛さで、この辛さは、日本ではなかなか味わえない種類のものだ。海老の前菜も、デザートも、なかなかよいセンスで、うまかった。ここの味は、口の中で交差するこれらの食材との総合効果だ。カレー単体は、意外にシンプルな方向の味だった。しかしこれも、なじむとたぶん依存症になる。宇山さんもうまそうに食べていたが、ビールはまったく飲まなかった。
宇山氏は今、ある計画を持っている。今日彼は、そのことも話にきたはずだ。彼はそろそろ定年退職になる。その前に、講談社に最後のけじめの仕事を残したい。これは以前、赤坂で食事をした時にはじめて聞いた。そういえばあの時は、秋元氏の方が入院していた。編集者は激務なのであろう。宇山氏の企画は、「少年少女ミステリー図書館」とでも呼ぶべきもので、今新本格を読んでくれている読者の子供もそろそろ大きくなった頃だから、親にも、その子たちにも読んでもらうことをもくろむ。こちらも文春のミステリー・マスターズ・シリーズのように全集的な構成にして、現在の主だった本格の書き手を網羅、隔月ごとに、定期的に刊行していきたいと、そんな計画だった。
今の宇山氏は、文三をはずれ、自分一人の特別なポストを用意してもらって、どちらかというと趣味的に、気ままにやっているらしい。その部署で、この企画をやりたいということだ。講談社のこちらは、名称を「ミステリーランド(Mystery Land)」とするらしい。カテゴリーとしては子供に読ませるもので、だから作家には平易な筆致が要求され、総ルビ製本を考えている。しかし中身はしっかりとした、大人も楽しめる本格もの。簡易箱入り装丁を考えていて、著者が望めば、中の活字も黒以外の色を選べるようにするという。親子で楽しめる遊び心を大事にしたいらしい。そうして、こちらも刊行の第一陣に入って欲しいという要請だった。
枚数は250枚くらい、第1グループは、ちょうど宇山さんの誕生日である2003年の4月9日に原稿が欲しいという。つまりこの書き下ろしは、彼の誕生日プレゼントにもなる。そうしたら、自分は59歳のよい誕生日が迎えられるだろうと彼は言った。戦友からの最後の依頼なら、これは応えないわけにはいかない。
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