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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第127回
島田荘司のデジカメ日記
島田荘司のデジカメ日記
7−25(木)昼、中国新聞のインタヴューを受ける。
中国新聞の藤井礼士さんという記者に、インタヴューを受けた。
話があったのはひと月くらい前で、これは中国新聞が、「びんご人国記・ふるさと応援団」というコラムを連載していて、広島県出身の著名人に故郷への思い、また故郷の人々へのメッセージを話してもらいたい、という趣旨のようだった。それから何度かメイルで連絡を取り合い、日程を調整してこの日に決めていた。
こちらはアメリカだし、もう福山に帰る機会がないので、どこで会うことにするか、場所や日程がなかなかむずかしいのではないかと思って、教えられたアドレスにメイルしてそう言ったら、藤井氏が夏に上京する機会があるという。そこでこの日を訊いて、こちらが合わせた。こちらは東京にいる時期なら基本的にいつでもよい。吉祥寺まで来てくれると言うから、それなら例によって駅前の吉祥寺ルノアールでと思ったが、写真を撮れる場所がいいというので、拙宅のバーにした。
家の場所は一応説明したが、解りにくいかもしれないと言ったら、藤井氏が自分の携帯電話の番号を教えてくれた。こちらも教えたら、当日吉祥寺の駅に着いたら電話をするという。家で待っていたら、無事にかかってきた。井の頭公園あたりから電話で細かく誘導し、われわれは無事に拙宅のバーで出会えた。藤井氏はカメラマン氏と一緒だった。
藤井氏の口調には、懐かしい故郷の訛りがあった。広島県の空気を体いっぱいに含んで、彼はカリフォルニアから戻ったぼくの前に現れた。彼はなかなか垢抜けた風貌の人物で、あまり福山らしくないと思ったら、関東の出身だという。東京支社勤務も長かったのだそうだ。

これまでに出た記事のコピーを、参考に持ってきてくれていた。これは福山市出身の歌手、世良公則さんとか、日本商工会議所頭取、山口信夫さんの記事だった。
インタヴューが始まり、聞かれるままにあれこれと喋った。しかし故郷にはもう20年も帰っていないので、福山のあの道沿いの建物がとか、現在のあの記念館には、などという話ができなくて、彼には申し訳なかった。福山は、ずいぷんと変わっただろうと思う。
まずはミステリーの一般論をした。ぼくが考える本格ミステリーの定義について述べ、最新作の「魔神の遊戯」についても、問われるままに話した。
福山時代というと、どうしても弟の思い出になる。弟は名前を量司といった。福山時代、彼とはよくギターを弾き、ビートルズをコーラスした。その弟がバイク事故で死んで、もうこの街にいる理由はなくなったと感じ、東京に出た。この時に考えたことは、まだ20代前半だったことだし、弟のためにLPレコードを作ってやる、これは弟の遺恨試合だと、そんなような気分だった。
首尾よくレコードが作れたら、これを持って弟の墓参りに戻った。その後は妹の結婚式に帰った。弟の死以降に福山に帰ったのは、このわずかに2度だけだ。そのままは話さなかったが、まあそんなようなことを語った。
妹とは歳が離れすぎていて、弟が生きている頃は、一緒に遊んだり、一緒にどこかに行ったりということはしなかった。妹との密な付き合いができたのは、彼女がおとなになって、大学で東京に出てきてからだったろう。しかし次男が死に、長男は家を出たので、妹が養子をとって家業の電気会社を継ぐほかはなくなり、この点は妹に申し訳ないことをした。
作家になってからの福山市との関わりというと、あれはもう4〜5年も前のことになるのか、福山市に新設された文学資料館で、ぼくを入れた5人の作家展をやるということになり、母親が吉祥寺まで出てきて、ぼくが使っている机の上のものを、あれこれと持っていったことがある。展示会場に飾るのだと言っていたが、この時も自分は帰らなかった。
それから妹のご主人が、仕事上のお付き合いもあるのだろう、地もとで行われるイヴェントの類に積極的に関わっていて、神戸大震災のおり、これを慰労するイヴェントを市内のバラ公園でやるから、ヴィデオ・レターを送って欲しいと言ってきた。それでこの地の友人に家庭用のヴィデオ・カメラを持ってもらい、ちょうどノースリッジの地震がLAでもあって、破壊されたアパートがそのまま残っているような頃だったから、これの前まで出かけていって、崩れたアパートをバックに、ヴィデオ・カメラに向かってあれこれ喋った。
ところがアパートに戻って再生してみたら、声が全然入っていない。通常の音量で喋っても声が録れるのは、ピンマイクを胸につけ、腰に発信機を取りつけているからで、カメラにマイクが付いただけの家庭用のヴィデオの場合、相当に怒鳴らなくては声が入らないのだった。そう知って、もう一回ノースリッジまで行ってやり直したりした。この8ミリ・テープを送ったら、会場で流したらしい。
最近では、文学資料館の隣の福山美術館で「ピース・フェスタ」というイヴェントをやるので、福山市民に何かメッセージが欲しいと妹夫婦が言う。これは文章のコメントでよいというから、「自殺者の王国」というタイトルで、自殺をとめようというメッセージを書いて送った。今自殺者が年間3万人、交通事故者はここ10年間ずっと年間1万人、交通事故死者の時は大騒ぎしたが、自殺者の今はなかなか静かだ。この異常さを訴えるメッセージを書いて、メイルした。これも、きっと会場に展示されたのだろう。そんなような話をした。
ほかに福山時代の思い出というと、自動車の運転の楽しみを憶えたのがこの街だった。運転免許も福山の教習所で取得した。だから福山は、ぼくの自動車趣味の原点になる。免許証取得は、なんと総額たったの24000円だった。当時、年寄りと一緒に自動車学校になど入ろうものなら、仲間に大いに馬鹿にされたものだった。教習所でひたすら練習し、隣の自動車学校で定期的にやっている試験を、ゲリラ的に受験した。比較的あっさりと受かり、だからわずか24000円ですんだ。
車の趣味はそれからいっときぼくを支配して、仕事の一部にさえなったけれど、福山の道が体に染み込んでいて、たとえば福山の駅前通りから、海沿いの鞆の浦という街までの距離が14kmなのだが、今でも14kmという道路標識を見ると、それがドイツでもアフリカでも、ああ鞆までの距離だと思ってしまう。これが感覚的な物差しになってしまった。
福山と鞆は、ちょぅど今の東京と横浜の関係で、福山の人間がちょいとドライヴと思うと、たいてい行く先が鞆になった。そんなような話をした。

話している間中、カメラマン氏はぼくの写真を撮っていたが、インタヴューが終ってから、念のため井の頭公園に行き、橋の上で噴水をバックに、もう一度写真におさまった。記事は年内には掲載されるという。掲載されたら連絡をくれるということだった。
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