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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第125回
島田荘司のデジカメ日記
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7−24(水)午後、ゴジラの樹と御茶ノ水立体交差。
「魔人の遊戯」が完成したので、そのお祝いというのか、お礼というのか、それがしたいと言うので、文藝春秋社の菊池夏樹氏、そして荒俣氏と食事をするため、銀座へと向かった。
井の頭公園の七井橋を渡る。途中、池の彼方のゴジラの樹を眺める。最近はもうこれが癖になってしまった。今は夏、ゴジラの樹は青々と葉を付け、盛りだ。最近はこの樹も有名になったものとみえ、僕が彼方にカメラを向けていると、「あ、ホントだ、ゴジラだ」などという声が身近で聞こえる。
吉祥寺から銀座に出るにはまず中央線に乗るのだが、どこかで地下鉄丸の内線に乗り換えなくてはならない。その駅は荻窪でも四谷でもいい。どちらでも駅構内から丸の内線に乗り継げる。何か読みながら、すわって行きたいなら荻窪で降りる。1分でも速く着きたいなら、四谷まで中央線から降りない。荻窪は、始発だから必ずすわれる。連結器そばの端、というか奥の席にすわれば、ゲラに朱を入れることだってできる。
この日は約束に遅れそうだったから四谷まで行ったのだが、一心に考えごとをしていて、ふと気づいたら窓外は御茶ノ水駅なのだった。あわてて飛び降り、丸の内線に乗り換えようとしたら、ここは改札口を出て、表の道をかなり歩かなくてはならないのだった。考え込んでいて駅を乗り越したことは何度もあるが、気づいたのが御茶ノ水駅だったというケースははじめてなので、これははじめて知った。
改札を出て、案内表示に沿って歩いていったら、御茶ノ水橋を渡らされた。左前方に順天堂大病院が見える。デビュー間もない頃、ここに入院されていた高木彬光先生を見舞ったことがある。古くは、日米の大スターだった早川雪洲氏がここで亡くなった。そのさらに先には、江戸川乱歩氏が生みだした名探偵、明智小五郎氏が住んでいた御茶ノ水アパートがある。もう取り壊されたが、壊されている最中、あわてて駈けつけ、眺めた。この時の経験は、短編「乱歩の幻影」になった。乱歩氏がここを明智の居住地に選んだことをみても解るように、かつてこの界隈は東京で最も進んだ一角であり、日本の文化人憧れの土地だった。東京の西欧化、文明化のプランはここを震源にして、やがては同潤会アパート群になって都下にひろがっていく。
ぶらぶら行く橋の中途から、御茶ノ水立体交差が望めたので、思わず立ち停まってしまった。そうして、ぼくにとってもここ御茶ノ水が、先進都市東京の象徴であった時期があったことを思い出した。御茶ノ水、正確には御茶ノ水の立体交差がだ。ここ御茶ノ水は、神田川の上で、聖橋、地下鉄丸の内線、都営三田線、さらには総武線などが立体的に交差をする。今見れば別段どうということもない眺めで、むしろ古びたセメントの色の、貧しげな風景ともいえるのだが、ぼくの小学生当時、ここは鉄道好きの少年たちの聖地、憧れの場所だった。
これほど集中的に電車のガードが重なっている場所はないし、そもそも地下鉄が地上に姿を現す場所はそう多くない。そして、今はまったくもってどうということもない地下鉄丸の内線だが、当時この電車の赤い外観は夢のように派手で、美しいものだった。昔は列車というと無愛想な黒一色、客車はといえば茶色で、省線、つまり山ノ手線がせいぜい黄色に塗られているというくらいのことだった。そこに全体が朱色で、しかも横に白いベルトが一文字に走り、その上には曲線の幾何学模様が描かれているなど、まったく型破りのハイカラさで、子供たちの日々の話題となっていた。この丸の内線は、のちに総ステンレス製の東横線が現れるまで、揺るぎのない大スターだった。
当時ぼくは、目黒区立の東根小学校というところに通っていたのだが、そういう事情だから、学園祭の時、クラスの展示物としてこの御茶ノ水立体交差を作ろうという話になるのは、ごく自然な成り行きだった。そこで立体交差を観に何度かここに来た。しかし当時ここは有名なマニア用のスポットだったから、写真も多く出廻っていて、スケッチの要まではなかったと思う。
何ごとにも凝り性のぼくだから、放課後ともなると高度な材料や写真などをふんだんに用意し、みなを指図して、意気揚々と御茶ノ水立体交差作りに取りかかった。噂を聞いた別のクラスが真似をして、やはり御茶ノ水の立体交差を作りはじめたという噂が流れたが、ぼくはまるで問題にしなかった。こちらの方がよほど精密に、高度にできるという自信があったからだ。
ところが、である。何ごとにも油断は禁物で、蓋を開けてみると、ぼくは大いなるショックを受けるはめになった。確かにわがクラスの模型の方が、細部まで精密にできてはいた。敵の立体交差は、テクニック的にはまるでなっちゃいなかった。ボール紙の箱をつないで作った橋に、白い模造紙を、それもよれよれのしわだらけのままべたべたと貼り付けただけ、それに不器用なマジックの黒い線が、ぐちゃぐちゃと描き込まれているような代物だったが、大きさがわれわれの模型の三倍もあったのだ。ためにこの、実物とは似ても似つかない下手くそな作品が、ぼくたちの力作よりも遥かに見ばえがよいのであった。
今思えば、これはぼくの完全な計算ミスであった。いかに頑張ろうとしょせんは小学生の作るもの、精密度などたかが知れている。そうならむしろ稚拙な切り貼り、そして下手くそな描線などを前面に押し出し、大きさというけれんみで勝負する方が利巧というものであった。彼らのものは、この下手さが一種抽象作的な効果を醸していて、完全にわがチームの惨敗なのであった。ぼくは衝撃と悔しさで、その夜はなかなか寝つけなかった--- 、というような苦い思い出が、この御茶ノ水の地にはある。

その頃のぼくは、まったくのところ模型作りの鬼で、将来は円谷プロダクションに入って、ゴジラの映画を撮ろうと固く心に決めていた。それがいったい、どこでどう間違って作家になどなってしまったのであろう。ともかく中一に進んで、一家が広島県の福山市に移るという話になった時、作りためていた模型の類は持っていけないので、泣く泣く捨てざるを得なくなった。庭で焚き火をして、ここにすべてを投じるという展開になったのだが、あれほどに心血を注いだ作品をただ捨てるのは忍びないので、部屋に配置し、飛行機類は糸で吊って、ゴジラになって破壊することにした。すると弟が参加を表明し、自分がその様子を写真に撮ろうと言いだした。
それを聞くと撮影担当の方がクリエイティヴに思われ、小一時間ほど悩んだすえ、ゴジラの役は弟に譲り、自分は撮影に徹することを決めた。しかし「アクション・スタート!」の声をかけてみたら、破壊はまったくあっけないもので、全然面白くなかった。血も肉も踊らず、やはりこれはムーヴィで、それも高速度撮影などしなくては駄目だと気づいたが、模型はすでにみんな踏み潰されたあとだった。こんなことなら、やっぱり自分が壊せばよかったと大いに後悔した。
というような悔しい思い出が、橋の上で立体交差を眺めていると、あれこれ浮かんだ。
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