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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第123回
島田荘司のデジカメ日記
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6−6(木)、日系米人博物館。
日系米人博物館、Japanese American Museumは、ダウンタウン、リトル東京の東北の隅、ファースト・ストリート沿いにある。LAに暮らす日系人の、ここは文化的な中心地を成している。日系人の集会というと、たいていここになる。最近、非常に立派な新館が建った。以前の旧館もまだ横手にあるが、こちらはもう一般は入れない。裏手には、日系米人部隊、442大隊のモニュメントがあり、442の退役軍人たちが毎週つどって、テントの下でおしゃべりを楽しんでいる。
博物館に入って2階にあがると、日系人強制収容所の証言ともいうべき常設展示がある。これが館のメインの展示で、この展示こそが、この地の日系人団結の、精神的な支柱であろう。これにプラスして、各種の展示が入れ替わり行われる。
日系アメリカ人には深い心の傷となった強制収容所を、アメリカ人側は「Relocation Center」、つまり転住所と呼ぼうとした。しかし収容経験者は、誰もがこんな呼び名には反発し、定着しなかった。今日では、「Concentration Camp」と一般に呼びならわされている。収容者が終戦で開放され、家に戻っても、それが他人に盗られていたのでは転住所とは呼べない。これは当然のことである。
展示スペースの入口には、ハートマウンテン収容所のパラックが再現されている。数年前、この博物館が新調される前、敷地は駐車場だったのだが、そこにいっときハートマウンテン収容所のバラックが持ち込まれて、展示された。これを館内2階に移したものと思うが、バラックの外形だけで内部はがらんどう、仕切りの内部壁とか、これで仕切られた各室内はもうない。
日系人強制収容所は、全米に10箇所あった。ワイオミングのハートマウンテンは、その1番北に位置して、敷地からは雪をいただいた山地がいつも望め、とても寒い土地柄だった。この博物館には、この収容所の遺品が多く展示されている。
まず目を引くものは、「ハートマウンテン・ミステリー・ロック」と呼ばれるものだ。この収容所の跡から、ひと文字ずつの漢字が書かれた、奇妙な小石がたくさん出てきた。誰が、何のためにこんなものを作ったのか、もう語る口がない。アメリカ人はこの表意文字が読めないから、とても不思議な思いがするのだろう。日本人にも、石と毛筆の漢字との組合わせは、霊界や怨霊などを連想して、少々気味が悪い。この展示の趣旨からしても、ついそのような思いは来るが、誰かがこの石が作った時には、そんな意味合いはおそらくなかった。たぶん、子供に漢字を教えたりする際に使ったのだろう。ボール紙や薄板がないから、拾ってきた小石にしたのだ。時間は、持てあますほどにあったはずだからだ。
強制収容は、日系人にとってはむろん屈辱だった。これは、とりわけアメリカ人として育った二世を傷つけた。彼らの多くは日本も、天皇も知らなかった。アメリカに移民として入ってきた一世たちは、ずっと働きづめだったから、正直なところ、収容所生活は生まれてはじめて味わう休息の時間でもあった。だから彼らは、ここではじめて趣味の暮らしというものを見つけた。終日囲碁や将棋をさしたり、劇団を作って芝居を楽しむ者も出た。
俳優上山草人の夫人、浦路は、真珠湾前に日本に帰国した夫と別れ、一人でLAに残ったから、ヒラーのキャンプに収容された。そこで彼女は、新劇の女優であった特技を生かして、キャンプ内の演劇のリーダーとして活動した。この時のことを彼女は、生涯最も幸福だった時期と回想している。収容所を出てからの彼女は、家がないので白人の家庭への住み込み家政婦となり、晩年は悲惨だった。ミステリー・ロックも、おそらくはこうした一世の誰かが、ひまにあかせて作ったものであろう。若い二世が、これほど毛筆に達筆であったとも思われない。
収容で、怒りにかられた二世たちの内には、収容所内ではじめて日本人であること、また反動から天皇への崇拝意識に目覚め、「天皇陛下万歳!」と叫んで敷地内をデモをする者も出た。こういう者たちは危険分子とみなされ、もう少し警戒が厳重な、ミネドカの収容所に集められた。
収容所に入れられた若者にも、召集令状が来た。忠誠登録をして、米軍に入れという。米政府としては、これは当然の処置だった。政府としては、日系米人を隔離し、自国民の暴行から守っているつもりだったからだ。しかし、収容者の特に二世は、これに怒りを感じた。敵国人として収容しておきながら、徴兵の際だけはアメリカ人だというのか。犯罪者として収監し、さらに敵地に赴いて死ねというのか。誰のために?
だから、兵役を拒否する者も出た。しかし悩んだすえ、自分たち日系人もアメリカ人であり、国に役立つ者たちであることを示して、この不当な扱いを撤回させようと考える者も出た。この考え方に共鳴し、あえて志願する者たちも多かった。展示写真には、普段着のまま整列し、米兵の上官に忠誠を誓う、日系二世の若者の姿もある。
彼らは、ハワイから来たやはり日系の米兵と一緒にされ、442部隊として編成された。ミシシッピーのキャンプ・シェルビーに送られ、訓練されて、欧州戦線への出陣を待った。しかし小さな体、いかにも頼りなさげな風貌、そして米国への忠誠心も不確かとみなされ、当分の間仕事はなかった。
しかし欧州戦線が急を告げるようになり、いよいよ彼らに出陣の時が来る。イタリアで、フランスで、小さな彼らは、大方の予想に反し、非常に勇猛に働いた。彼らの力が解ると、マーク・クラーク将軍は442部隊を手離そうとはしなかった。
この頃、収容所内の女性たちは、千人針を作って戦地に送った。これは日本の伝統的な習慣で、彼女たちはやはり日本人だったということか。館内にはこの布の展示もある。話に聞く銃後の千人針というものの実物を、この博物館でぼくははじめて見た。
ヴォージュの森の激戦で、多くの犠牲を出しながら442部隊は勝利し、包囲されていたテキサス大隊を救出した。この闘いの激しさは伝説となった。442部隊の一部、522大砲大隊はその後ザール川を渡ってドイツ国内に進軍し、ダッカウのユダヤ人強制収容所を開放することになる。彼らは、収容所から出て、収容所にたどり着いたのだ。
小柄な442部隊が本国に凱旋すると、トルーマンは彼らをたたえ、計1万数千に及ぶ勲章を贈った。この数は全米1で、お荷物といわれた442部隊は、いつのまにか全米1の勇猛な部隊になっていた。
ぼくはこのストーリーがとても好きで、LAに移り住んでのち、人づてに442部隊の生き残りの人たちを訪ねては、何人かと話した。この様子は、またいずれ紹介できるだろう。
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