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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第122回
島田荘司のデジカメ日記
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6−1(土)、ダウン・タウン、恨みの舗道。
ロス・マッケンジーの「JAP騒動」というのは、以前《季刊島田荘司》の中ではお伝えしたが、これはロスが自分の劇団の名称を、「Japanese American Players」としたことに端を発する。これの頭も字をとると「J.A.P.」となり、悪名高いあの差別語になる。
これは、彼の日本人妻、京子さん、ニックネームはシカさんが、ロスが以前に使っていた劇団名「Global Fusion」を、ちょっと大袈裟でおこがましいと言ったことに始まる。そこでロスが、この名称を絞り出した。彼としては、単に「日本人俳優と、アメリカ人俳優との融合による演劇の集団」、という程度の意味だった。要するに前の名と同じ意味で、LAのシアター・オブ・アーツの教師をして、若い日本人俳優たちと多く知り合ったから、彼ら日本人の役者たちと、今後は活動をともにしていきたいという彼の思いを表現したものだ。
この時点ではアメリカ人であるロスも、日本で育った若いシカさんも、「JAP」という3文字が、日系米人にとってどれほどに強烈な意味あいを持っているか、充分には理解していなかった。ロスはこの名前で日米の役者を集め、自分で脚本を書いた「ジキルとハイド」を、バーバンクの割合大きな劇場にかけようとした。フライヤー(チラシ)も大量に刷り、これには彼が日本で作ってきた友人、ビートたけし氏とか、ロスが出た東映映画「プライド」の監督も、推薦文を寄せていた。ぼくもまた書いた。
マスコミが取材に来たから、ロスは喜んで受け、「言葉に差別的な意味を与えるのも、好意的な意味を与えるのも、それを使う人次第。第2次大戦中に発生した否定的な意味合いをあえて表に出すことにより、あらゆる偏見にピリオドを打つ助けとしたい」と述べた。これはまったくの正論だったが、LAの日系人社会はそう考えなかった。日系人組織が烈火のごとく怒り、組織的な抗議行動に出た。ロスは日本人が好きだったし、生涯の伴侶も日本人から選んでいた。今後の活動を、ぼくなども含めた日本人とともに送ろうと考えていたほどであるのに、日系人からのこの攻撃は、予想外であり、また筋違いに思えてショックだった。
日系人としては、「JAP」というショッキングな言葉をあえて使うのは、単にこれが客寄せになるという商売人の計算にすぎず、こんな汚い言葉を平気で口にできたり、麗々しく印刷できるという神経自体、差別主義者の証だ。日本人と仲がよいふりをして、実は根底で蔑視している、そういう定番の理屈が組まれていた。しかしロスをよく知るぼくなどには、彼がその手の白人とは到底思われなかった。
JAPの語は、JewishのJewや、Texans(テキサス野郎)というのと同じく、もともとは単にその人種への愛称であったと思われる。しかし真珠湾奇襲以降、この言葉はアメリカで非常にネガティヴ・ウェイに使われるようになって、今も回復していない。そうなら、戦争の記憶自体が薄らいだ今、もともとあった自然な意味合いに戻せるはず、そう彼は考えた。普通にアメリカ社会で暮らしている限り、日系人にそれほど激しいわだかまりがあるとは感じられなかったし、ロスとしてはこれを、むしろ仲間の白人たちに向けた気分でいた。ところが、そうではなかった。
ロスのもとには、日系人たちからの抗議文や電話が怒涛のように押し寄せ、シカはその対応と、真意説明に追われることになった。手紙には、ロスの真意や事態の持つ意味あいにはほとんど頓着せず、脅迫それ自体に快感を感じているような悪質なものも混じっていた。抗議集団の一部は、何度も似た行動をとってきていて、一種プロ化しているようにも思われた。
抗議は劇場にも、ダウンタウンの日系アメリカ人博物館にも相継ぎ、博物館側は、今後この名称ではいっさいの協力はできない、また寄付もお断りする旨通達してきた。劇場も貸し出しを渋るようになり、ロスのアパート背面の配電板が破壊され、電話が不通になった。どうやらマスコミは、この劇団名に騒動の火種を嗅ぎつけ、ロスにインタヴューを申し込んできたものらしかった。ロスの「ジキルとハイド」は、こうして事実上公演不能となり、中止のやむなきにいたった。先日の「ヴァリー・オブ・ザ・ドルズ・ハウス」に客が入っていなかったのも、依然こういう抗議行動の余波にあるとも考えられる。
ロスの提案は、まだ時期尚早だったということではあろう。日系人の中には、もしも「JAP」と言われたなら、理由のいかんに関わらず、そいつをぶん殴っていいと父親に教えられた息子もいた。母親と舗道を歩いていて、「JAPは舗道を歩くな!」と罵られ、車道に追い落とされたという女性もいた。結局、「どうして名前を替えないんだ馬鹿馬鹿しい! 芝居がしたいんだろう?」というアドヴァイスにロスは屈したかたちになり、世直し闘争はあきらめて、もとの名称、「Global Fusion」に戻した。
この問題は、ぼくはロスの言い分に分があると考えている。このままでは、「JAP」という英単語がアメリカの国語から消えるだけで、かつての差別行為自体を世間に考えさせる効果はない。事態はなんら変化せず、何より日本びいきの味方への攻撃だけになってしまって、差別をした当のアメリカ人に対しては、なんらの抗議的な意味合いが生じない。
多数派を盾に、相手が弱いと見てのこういう正義の凶暴は、大戦勃発時の日系人差別のヒステリーと同等である。戦時の恨みをいつまでも棄てないのは、北朝鮮の場合とも似ている。抗議団体は、LAの街にJAPという文字を含んだ看板を見つけると、ここに抗議行動をしかけたり、組織的に嫌がらせ電話をかけたりして、店を潰したり、名前を替えさせるという正義行動をとり続けている。こういう行為の当否を考えさせるためにも、またボイコットが依然続くのなら、どのみち活動は成果をあげにくいのだから、しっかり闘うべきと思っている。

しかし彼ら日系米人の妨害行動も、理解ができないものではない。ダウンタウンLAのリトル東京、ファースト・ストリートの舗道を歩くと、このことが実感される。
この日本人街には、悪役で一世を風靡した上山草人が最初に滞在したホテルがあり、チャップリンがトレード・マークとした日本製の竹ステッキを、日本人運転手、高野虎市の案内で見つけた街であり、「キッド」の子役を、やはり高野の助言で見つけた街でもある。
ファースト・ストリートの舗道、これの建物寄りには、幾重ものラインが長々と引かれていて、この線の間に、点々と文字が並ぶ。たとえば「1890、クィーン・ホテル」、「1910、ニッコウ・ホテル」、「1926、Dr.W.ツキフジ歯科」、「1935、ウシカワ・ホスピタル」、などという名称が、縦方向に折り重なって書かれている。この場所には、かつてそういう施設があったという、これは永遠の宣言である。
1941年暮れ、日本海軍によるハワイ真珠湾奇襲で太平洋戦争が勃発、日系人に対する悪感情が爆発のように高まって、日系人は全員強制収容しようという機運が国内に高まった。アメリカ人の暴行から日系人を守るということが建前だったが、事実上は、平時に宣戦布告なしで奇襲を行えるような犯罪民族は、根こそぎ監獄に入れるべしという、乱暴な世論に配慮したものであった。
黙々と働き詰だった一世だけでなく、アメリカ生まれで英語しか話せない二世も、裁判も受けられずに収容された。当時日本人は不動産が持てないという法律があったから、強制立ち退きはごくスムーズだった。準備の時間はさして用意されず、各自トランク一杯分の荷物しか持ち出せなかった。彼らは近くのユニオン・ステーションから列車に乗せられ、いったん競馬場などに振り分けられて、臨時に収容された。部屋は馬糞臭く、不衛生でプライヴァシィはなく、おまけにひと晩中電灯を消すことが許されなかった。リトル東京は一夜にして廃墟となり、あちこちに「日本人は出ていけ!」の文字が翻った。収容は日系人だけで、ドイツ系、イタリア系のアメリカ人には議論さえなかった。しかし日系人は、犯罪を成す率は最も低い人種だった。
強制収容所ができたというので移送されていくと、砂漠のただ中に、なかばできかけのバラックがずらりと並び、住居からして、収容者が自分で作らなくてはならなかった。そしてここもまた、シャワーもトイレも不備で、プライヴァシィはほとんどなく、表に出たら塔の上で機関銃とライトが狙っていた。
そういう囲いの中で不自由な何年かをすごし、ようやく終戦でもとの家に戻ってみれば、家には見知らぬ白人たちが住んでおり、汗で築いた財産は、すっかり奪われていた。働き抜いたあげく、失意の内に死んでいった親たちを、この時期大勢の息子たち、娘たちが見ている。リトル東京を取り戻すのに、何年もかかった。舗道のこのモニュメントは、すべて真珠湾攻撃の年で途切れている。日系人の歴史は、この年に強制的に寸断されたのだ。これを忘れまいとして、この舗道は作られた。
いわばこれは、恨みの舗道である。そしてこの時期、日系人の抱いた激しい怨念は、真面目一方の自分たちを、傲慢に囲いの内にと追いたてた、あの「JAP!」という罵声に集約される。
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