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編集室の窓から
島田荘司のデジカメ日記
第116回
島田荘司のデジカメ日記
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3−8(金)、奇想、横浜オフ。
SSKの、tenさんたち「奇想の源流」グループが横浜でオフ会をやるというので、車で出かけた。ワールド・ポーターズ近くの駐車場に車を置き、ぶらぶら歩いて会場まで行った。この駐車場は、午後11時で閉まることになっているから、今夜は2次会、3次会までは付き合えない。
先日飛行機から見降ろしたばかりのみなとみらいを、今夜は蟻のようにゆっくりと移動していく。途中、赤レンガ倉庫群横を通ると、もうかなりできている。ここはもうすぐショッピング・モールとしてオープンする。
最初の店は串焼き屋で、横浜球場のすぐ目の前だった。入ると、もうみんな集まっていて、歓声をあげている。ちょっとだけご挨拶をと言われたが、店がざわついているものだから、ずいぶん怒鳴っても声がみなに届かない。では次の店で挨拶しますよということにした。
この店では、志乃さん、オクラさんが近くの席になった。オクラさんが、T橋さんがトチ狂って行った、ぼくのT橋さん宛てメモ書きプレゼントに当たったと言って、現物を見せてくれた。最近、原稿はメイルですぐに送れるが、続くゲラのやり取りは、どうしても郵送に頼らなくてはならない。この郵送は、最近もっぱらフェデラル便になった。フェデラルは、専用の厚紙の大封筒、薄い紙のさらに大きな封筒、もっと大きな箱、というふうに、パッケージが各種揃っていて便利だが、それらに裸でゲラを入れる気にはならず、茶封筒に入れてから、これをパーケージに入れる。その時に、手紙を別紙に書くのもおっくうなので(これはメイルでもうすんでいる)、茶封筒の表に、「再校早めに見せてください」などと走り書きをする。このメモだった。封筒のメモ部分が切り取ってあり、こんなものが当たってもしようがないだろうと思って、まことに赤面のていであった。もう辞めて欲しいものだ。これなら「ミタライ・カフェ」の俯瞰図のラフスケッチとか、もっとマシなものがいくらもあったように思うのだが。
志乃さんも来ていて、いろいろと世話をやいてくださり、「あ、サラダ来ていないですね、ちょっと待ってください」などと言って、気軽に立って店の奥にせかしに行ってくださったりで、まったく恐縮した。というよりびっくりした。こんな顔の売れた有名人に、そんなことしてもらっても大丈夫だろうかと思ったのだが、とめる間もなかった。
tenさん、Exieくん、ヒロくんの顔も見え、みな元気そうだった。かなり遠来の人もいて、大変だったろうと思う。美人福しゃちょーの写真も撮れたので、ここに本邦初公開しようかと思う。
2次会は、個室のある店に行く。ここで、出雲から来ているいわきさんと話した。非常に人柄のよい人だった。角田さんの顔も見えた。アケミ姉さんがそばに来て、お父さんに配布された、特別攻撃隊の隊員用腕時計のレプリカを差し出し、どうぞ持っていてくださいと言われ、びっくりした。
アケミ姉さんは今ご両親ともの介護をされているそうだが、彼女のお父さんは、土浦の海軍航空隊に予科練習生として属されていて、特攻出撃を待っていた。しかし出撃前に終戦となり、命を拾った。この時の海軍飛行隊愛用の腕時計のレプリカを、最近有志が作ったのだが、父には本物があるから、どうぞこれを持っていらしてください、と言う。そんな貴重なものをとご辞退したのだが、いえいえ、どうぞと言われるので、申し訳ないと思いながら、ありがたくいただいた。
この時計は、非常に珍しいつくりをしている。まず異様に文字盤が大きい。そしてぶ厚い。文字盤は薄い茶色をしていて、上部に海軍航空隊、下部には錨のマークが入っている。これはおそらく、戦闘機の操縦席で時刻を読むには、このくらいの面積が必要なのだ。
自慢ではないが、ぼくは子供の頃はゼロ戦おたくで、エンジン、いや発動機の始動のしかたから、離陸のやり方まで心得ていた。戦闘機の中というものは、特に日本のものは多く空冷だし、軽量化のために防音材など節約してあるから、操縦席の音はものすごいものがあった。九七式艦攻など、後方同乗の者が耳元に口を寄せ、怒鳴っても全然声が聞こえないというくらいのすさまじさで、そういう音は強烈な振動もともなう。こういう場所で小さな文字盤を読むには、このくらいの大きさが必要なのだろう。
以降この腕時計はおおいに愛用し、どこに行くにも、ちょっと写真に写るのにも、常に左手に填めて写った。人と会っていて、ふと気づくと、みなたいていこの時計を珍しそうに見ている、そこで、いやこの時計はですね、ということで話題ももつ。大変貴重でありがたいものをもらった。
アケミ姉さんは、その後もお父さんの関係の資料を送ってくださり、ぼくは旧軍について、また戦争遺跡におおいに興味があるので、大変にありがたかった。お父さんの「土空の思い出」という文集で、ぼくは桜花というロケット特攻機が、一式陸攻などの懸架からばかりでなく、台車カタパルトを用いて、地上からも離陸していたことをはじめて知った。もっともこれは実験的なものであったらしく、練習で命を落とす兵もいたようだ。ロケット機だから、噴射はほんの数分間だったはずで、そのような飛行機の地上からの離陸には、ずいぶんと無理があったはずだ。
この基地は、三浦半島、長浜海岸にあったそうだ。衣笠駅から徒歩で行き、小高い丘を越えた先にあった。この桜花の長浜基地は、現在はどうやら跡形もないらしい。柏書房の「戦争遺跡の事典」には載っていない。同じロケット機、秋水の特殊地下壕、これはどうやら燃料庫の一部らしいが、柏市花野井の、花野井交番裏に遺っているとある。
桜花の基地としては、沖縄字白川の嘉手納基地内に、桜花のものと思われる掩体濠(えんたいごう)群が今も残っているそうだ。桜花のものという確証はないらしいが、ここに桜花が10機ばかり配備されていたことは確かだし、格納庫が比較的狭いところから、桜花用のものだろうと見当がつけられている。終戦時破壊命令が出て、すべては不明になった。
ロケットの技術も、ジェットの技術も、戦後はアメリカに受け継がれた。この時期、どちらの推進機関により将来性があるものか、しばらくは専門家にも解らなかった。アメリカの音速挑戦プロジェクトの1号機、X-1はロケットだった。後半は、すべてジェットになっていく。
秋水やキッ花は、潜水艦などでドイツから設計図が来たものだったが、桜花の機体は国産である。海軍の技術将校、三木忠直という人物が設計した。日本の航空機産業は、ジェットの技術に触れることを禁止され、この大事な技術転換期を逃したから、以降ほぼ消滅した。日本の飛行機屋たちは戦後YS-11を一機だけ作ったが、あとは地上の乗り物に活路を見い出した。
多くが自動車産業に流れた中で、三木は新幹線の開発プロジェクトに携わり、文字通り寝食を削る。しかしいよいよ開通という直前、彼は飄然と国鉄を去る。桜花でたくさんの若人を散らせた自分に、新幹線開発の栄誉を受ける資格はないという思いからだった。桜花には、そういうドラマがあった。
オフ会を早めに辞し、ぶらぶら行くと、山下公園から赤レンガ倉庫の手前まで、遊歩道ができていた。高速道路のように二階建てだった。山下公園の中の階段をあがってこれをぶらぶら行くと、みなとみらいの高層ビル群や、観覧車の明りに向かう。途中で立ち停まり、手すりに寄ってみると、眼下に湾内の警備にあたる船が係留され、ゆるゆると揺れている。
横浜はどんどん綺麗になる。こんな様子は、なかなかアメリカにもない。
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